コイン探求の旅 #25 『ハイデラバード藩王国 1ルピー銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ハイデラバード藩王国 1ルピー銀貨』です。

発行国  ハイデラバード藩王国(インド)
材質  シルバー
品位  0.818
発行年  1919年
発行枚数  ?
鑑定会社  NGC
グレード  MS64
サイズ

 藩王国については、以下にまとめましたので参照して下さい。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 ハイデラバード藩王国は、ニザーム藩王国またはハイダラーバード藩王国とも呼ばれますが、ここではハイデラバード藩王国と書きます。

 このコインは、表面にはハイデラバードのシンボルであるチャーミナーが大きく描かれ、チャーミナーの門には第10代国王ウスマーン・アリー・ハーンの「ウスマーン」の頭文字(ウルドゥー語)である「ع」が刻まれています。また、チャーミナーの周囲には、ムハンマドを示す「92」の数字(おそらくイスラム創始者ムハンマドの事、92の意味は不明)、アーサフ・ジャー(国王の称号)、「勇敢なる王国の支配者」、ヒジュラ暦の年号1337年が刻まれています。裏面の小さな円の内側には、額面の1ルピーが刻まれ、円の外側には「ハイデラバードのファルカンダ・ブンヤド(地名の事?)において、静謐な繁栄の第一年に打たれた」といった内容の碑文が刻まれています。

 ハイデラバード藩王国はインド南部に位置しており、すべての藩王国の中で最大の領土を持っていました。

ニザーム王国 - Wikipedia

 このコインは、ハイデラバード藩王国の最後の国王であるウスマーン・アリー・ハーンの治世において発行されたコインです。在位期間は、1911~1948年でした。

ウスマーン・アリー・ハーン - Wikipedia

 ウスマーン・アリー・ハーンは、幼少期からの英才教育のおかげで、英語、ウルドゥー語、ペルシア語の3か国語を扱うことができ、ウルドゥー語、ペルシア語で詩文を書くことができるほど教養ある人物でした。また、国王としての志が高く、内政においては行政機構の整備、天然資源の開発、伝統文化研究機関の設立、市民の生活水準の向上といった政策を積極的に推し進めました。また、第一次世界大戦ではイギリス軍支援のために、藩王国軍騎兵隊を自ら率いてエジプトに遠征するなど、対外政策も積極的に行いました。

 1947年のイギリス領インド帝国の解体およびインド・パキスタン分離独立の際、ウスマーン・アリー・ハーン自身はヒンドゥー教徒主導のインド政府に参加することを嫌いパキスタンへの帰属を望んでいましたが、藩王国の領土がパキスタンと国境を接していない地域に存在したこともあり、どちらにも属さずに独立することを決定しました。

インド・パキスタン分離独立、ハイデラバードは中央グレーの部分 - Wikipedia

 これに対し、インド政府はカシミールをめぐる第一次印パ戦争の真っ最中という事もあり、独立は認めないが一旦棚上げとする方針としました。そのような状況の中で、ハイデラバードはパキスタン寄りの政策をとり、また独立国としてふるまい始めたため、これに激怒したインド政府は経済封鎖を行うといった対抗措置を取りました。その結果ハイデラバードの経済は一機にひっ迫し、インド政府の対応を安保理に提訴したため、両国の関係は極めて険悪な状態になりました。

 1948年9月にカシミール問題がいったん落ち着くと、インドはハイデラバードに軍事侵攻を開始しました。ハイデラバード側はこれに対抗できず開戦からわずか4日後に降伏、インドに併合されることとなりました。

インド軍に降伏を申し入れたハイデラバード軍の司令官(右) - Wikipedia

 インドに降伏後、ウスマーン・アリー・ハーンはハイデラバードにある宮殿で余生を過ごし、1967年2月24日に79歳で死去しました。彼が亡くなった際、10億ドルという莫大な遺産を残し、遺産相続をめぐる親族間の法廷紛争は熾烈を極めたと言われています。

 

 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは2枚ありTop PopはMS65となります。NGCではおそらく22枚(MS以上が不明確)あり、Top PopはMS65+となります。このコインは、スラブ入りのものがコインショップやフリマサイトで簡単に見つけることができますので、MSクラスでも状態が良い物でない限り希少性はさほどないと思います。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙