コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ドイツ領東アフリカ 1ルピー銀貨』です。
発行国 | ドイツ領東アフリカ |
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材質 | シルバー |
品位 | 0.917 |
発行年 | 1910年 |
発行枚数 | 270,000枚 |
鑑定会社 | 未鑑定 |
グレード | XF~AU相当 |
サイズ |
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このコインは、表面には軍装のヴィルヘルム2世の肖像が描かれ、周囲にラテン語で皇帝ヴィルヘルム2世と刻まれています。裏面には上からラテン語でドイツ領東アフリカ、額面の1ルピー、発行年の1910年が刻まれています。
以前、同年代の英領西アフリカのコインについてブログを書いていますので、併せてこちらも参照してください。
ドイツ領東アフリカとは、アフリカ南西部(下記地図のグリーンの箇所)にあり、現在のブルンジ、ルワンダ、タンザニア辺りの地域を指します。
第一次世界大戦の開戦に伴い、アフリカ大陸でも同盟国領と中央同盟綱領の間で戦闘が発生しましたが、ドイツはアフリカ領にさほどの戦力を配置しておらず、東アフリカ以外の地域はさしたる抵抗もできずに制圧されました。しかし、東アフリカだけは異なり、植民地防衛隊を率いたパウル・フォン・レットウ=フォルベックは果敢に抵抗を試み、連合国から「アフリカのライオン」と呼ばれ恐れられました。コインの発行年は開戦前ではありますが、今回は彼について解説します。
パウル・フォン・レットウ=フォルベック - Wikipedia
第一次世界大戦の開戦前、パウル・フォン・レットウ=フォルベックは中国大陸やドイツ領南西アフリカに派遣されていました。彼が東アフリカに派遣されたのは1914年4月13日で、植民地防衛隊司令官に任命されました。彼が率いた戦力は、当初3,000名のドイツ兵とアスカリでした。アスカリとは、ドイツに雇われた原住民部隊の事を指します。
対するイギリスをはじめとする連合国は、総勢30万という大規模な兵力を擁していました。どの戦場においても常に数倍の圧倒的戦力でレットウ=フォルベックとドイツ植民地軍を追い詰めようとしましたが、彼は複雑な東アフリカの地形を巧みに利用してゲリラ戦や奇襲攻撃を仕掛け、その目的を容易に達成させることはありませんでした。また彼は、補充がままならない状況にしばしば陥りましたが「使えるものは何でも使う」を徹底して行い、現地調達した物品や敵から鹵獲した装備を使いこなしました。彼の巧みな戦い方は、ドイツ将兵だけでなくアスカリ達からも尊敬されました。
連合国軍は、ドイツ植民地軍以外にも風土病や害獣、害虫にも悩まされ、また寄せ集めの軍隊であるが故の練度の低さや油断による不手際等も重なり、多くの犠牲者を出しました。1914年11月3日から開始されたタンガ上陸作戦では、十分な偵察を行うことなく作戦を決行したため、ヒル、水蛇、ツェツェバエが生息する危険な地域に上陸してしまうという失態を犯しました。さらにはレットウ=フォルベックの待ち伏せ攻撃を受け、銃声などに刺激された蜂の大群に襲われ、パニックに陥った味方による誤射も加わり、大混乱に陥りました。その結果、8倍以上という圧倒的戦力を持っていたはずのイギリス軍は800名の戦死者を出し、多数の銃器や60万発もの銃弾を現地に残して退却しました。レットウ=フォルベックがそれらの戦利品を有効活用したことは、言うまでもないことでしょう。ちなみに、イギリス軍に襲い掛かった蜂の大群は、ドイツ軍にはほとんど被害をもたらしませんでした。フォルベックが何かしら蜂の習性を利用したのか、イギリス軍が蜂の巣の密集地帯に迷い込んだのか、単なる偶然なのか、その辺りは分かりませんでした。
タンガの戦い Germans on the left, British on the right - Wikipedia
レットウ=フォルベックは、ゲリラ戦や奇襲攻撃を行いながら各地を転戦しましたが、圧倒的戦力の連合国は徐々にドイツ領東アフリカを制圧していき、彼はその地から離れざるを得なくなりました。それでもポルトガル領東アフリカや北ローデシアで戦い続け、終戦まで決して降伏することはありませんでした。
East African campaign (World War I) - Wikipedia
1918年11月11日にドイツ本国が休戦協定に署名したため、11月23日に連合国に投降しました。その時彼の下にいたアスカリやポーター以外のドイツ兵は、わずかに30名の士官と125名の下士官等だけでした。彼が戦闘を停止した地には、パウル・フォン・レットウ=フォルベック記念碑が建てられました。彼は1919年3月にドイツ本国に帰国、国民に英雄として迎えられました。
Chambeshi Monument - Wikipedia
その後のレットウ=フォルベックについての話は、コイン発行年からだいぶ離れてしまいますので詳細は割愛します。少しだけ書くと、1935年にヒトラーからイギリス大使の職を与えられそうになりましたが、それを断りました。これはヒトラーとその政治活動に強い不信感を抱いていたためだと言われています。また第二次世界大戦では、軍務に復帰することはありませんでした。
レットウ=フォルベックは、1964年3月9日にハンブルグにおいて93歳で亡くなりました。彼の遺体は、プロンシュトルフのヴィセリン教会の墓地に埋葬されました。
Datei:Vicelinkirche (Pronstorf).Südwestansicht.2.ajb.jpg – Wikipedia
このコインの鑑定枚数は、PCGSでは16枚あり、Top PopはMS64となります。NGCでは34枚あり、Top PopはPF66UCとなります。発行枚数はそれなりに多いコインですが、ショップ等で見かける機会はあまり多くないのではないかと思います。軍装のヴィルヘルム2世の肖像が描かれたコインは多くありませんので、ドイツのコインがお好きな方なら、入手しておきたいと思われるのではないでしょうか?
今回の旅は、ここまでにしたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇♂️
探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙