コイン探求の旅 #233 『フランス共和国(第三共和政) 2フラン銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス共和国(第三共和政) 2フラン銀貨』です。

発行国  フランス共和国(第三共和政)
材質  シルバー
品位  0.835
発行年  1915年
発行枚数  13,963,409
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF~XF相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にフリジア帽をかぶり、風に向かって種をまく女性(フランス語でラ・スムーズ、フランス共和国の未来、勤労、文明、繁栄を象徴し、自由、教育、労働、農業などを連想させる図像)と昇る太陽が描かれ、その周囲にフランス語で「フランス共和国」、下に「O.ロティ(エングレイバーのルイ=オスカル・ロティを示す)」と刻まれています。裏面にはオリーブの枝(平和の象徴)が描かれ、外周にフランス語で「自由・平等・友愛(フランス共和国の標語)」、オリーブの枝の上に額面の「2フラン」、下に西暦の発行年「1915」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、ルイ=オスカル・ロティが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=2

 このコインは、フランス共和国(第三共和政)において発行されたコインです。今回は、前回の続きから1917年までについて解説します。

フランス第三共和政 - Wikipedia

 パリ・コミューン終結から第一次世界大戦開戦前については、#232で解説しましたので、そちらを参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

Ⅰ.開戦前夜の第三共和政

 1914年のフランス第三共和政は、1870年の普仏戦争敗北と第二帝政崩壊の後に成立した共和国でした。1875年の憲法的法律を基礎とし、共和国大統領、内閣、上下両院からなる議会政治を特徴としていました。しかし実際には、政府は議会多数派の支持を常に必要とし、内閣の交代が比較的頻繁でした。強力な皇帝や首相が主導するドイツ帝国と比べると、戦争という非常事態にこの制度が耐えられるのか、という不安が存在しました。

 当時の大統領はレイモン・ポアンカレ、首相格にあたる閣僚評議会議長はルネ・ヴィヴィアーニでした。フランス社会には、保守派・カトリック勢力・急進党・社会主義者・労働組合など、さまざまな政治的対立がありました。1913年には兵役期間を2年から3年へ延長する「三年兵役法」が大論争を巻き起こし、1914年春の総選挙でも重要な争点となっていました。社会党(SFIO)は伸長していましたが、三年兵役法には反対しており、ヴィヴィアーニ内閣への協力にも消極的でした。

ルネ・ヴィヴィアーニ - Wikipedia

 一方、フランスは1870年の敗北以来、ドイツに対する安全保障を最重要課題としてきました。ロシアとの同盟、1904年のイギリスとの英仏協商、さらに三国協商の枠組みによって、ドイツ・オーストリア=ハンガリーを中心とする陣営に対抗していました。ただし、フランス社会全体がただちに復讐戦争を求めていたわけではありませんでした。祖国防衛への意識は強かったものの、1914年の選挙が示すように、戦争を避けたい社会主義者や平和主義者の声も多数ありました。

Ⅱ.七月危機と動員、ジャン・ジョレスの暗殺

 1914年6月28日のサラエボ事件をきっかけに、ヨーロッパは急速に危機へ向かいました。7月23日、オーストリア=ハンガリーがセルビアへ最後通牒を突きつけ、7月28日にはセルビアへ宣戦布告しました。この時期、ポアンカレ大統領とヴィヴィアーニ首相はロシア訪問から帰国する途中であり、フランス政府は国際危機への対応で必ずしも主導権を握れませんでした。フランスはロシアとの同盟を守る必要があると考えつつ、戦争が拡大する事態に直面しました。

 社会主義の指導者ジャン・ジョレスは、国際的な労働者連帯と平和を訴え、戦争拡大を阻止しようとしていました。しかし1914年7月31日、彼はパリのカフェで民族主義者ラウル・ヴィランに暗殺されました。この事件はフランス左派に大きな衝撃を与えました。ジョレスは反戦論者でしたが、同時に共和国と祖国防衛の立場にも立っており、その死は国内政治の緊張を象徴する出来事となりました。

ジョレスが暗殺されたカフェ・クロワッサン - Wikipedia

 8月1日、ドイツがロシアへ宣戦布告し、フランスでは総動員令が出されました。ドイツは8月3日にフランスへ宣戦布告しました。動員に際して、後世にしばしば想像されるような一様な熱狂だけがあったわけではありませんでした。駅前などで愛国的な歓声が上がった一方、多くの人々は驚き、不安、悲しみ、そして「行かねばならない」という決意を抱きました。数日のうちに約350万人が軍服を着て動員され、フランス社会は平時から戦時へ一気に移行しました。

Ⅲ.「神聖同盟」の成立

 開戦直後、第三共和政は国内の政治的対立を停止し、対独戦争へ一致して取り組む方針を打ち出しました。1914年8月4日、ドイツの宣戦布告の翌日、議会の両院が召集されました。ポアンカレ大統領のメッセージをヴィヴィアーニ首相が読み上げ、そこでは「ユニオン・サクレ(Union sacrée)」、すなわち「神聖同盟」が呼びかけられました。これは政党・階級・宗教上の対立をいったん脇に置き、祖国防衛のために国民が結束するという理念でした。

 この呼びかけは大きな効果を持ちました。社会党は戦争信用、すなわち戦費支出に賛成し、従来は国家や軍部に批判的だった労働運動も、ただちに大規模な反戦ゼネストを起こす方針を取らなくなりました。8月4日、議会は政府提出の戦時立法18件を満場一致で可決し、国家を戦争状態に置くための制度を整えました。その後、議会は会期を無期限休会とし、政府に戦争遂行を委ねます。多くの政治家は、戦争が短期間で終わり、フランスが勝利すると予想していました。

 8月26日にはヴィヴィアーニ内閣が改造され、神聖同盟は政権の構成にも表れました。社会主義者のマルセル・サンバとジュール・ゲードが入閣し、急進派や中道派の有力政治家も主要閣僚となりました。アリスティード・ブリアンが司法相、アレクサンドル・ミルランが陸軍相、アレクサンドル・リボが財務相を務めました。これは、平時には激しく対立していた勢力が、戦争の開始によって共和国の枠内で協力する体制を作ったことを示しています。

Ⅳ.1914年の危機とマルヌ会戦

 フランス軍は開戦時、アルザス・ロレーヌ方面で積極的攻勢を行う第17号計画を採用していました。しかしドイツ軍はベルギーを通って北フランスへ進出し、フランス軍の作戦は大きく崩れました。1914年8月から9月にかけて、フランス軍は甚大な損害を受けました。開戦後わずか6週間で約10万人が失われ、8月22日だけで約2万7,000人のフランス兵が戦死しました。この日はフランス軍史上、最も死者の多い一日とされています。

第17号計画(左)、シュリーフェン・プラン(右) - Wikipedia

 ドイツ軍の進撃によってパリは危機にさらされました。9月2日、フランス政府はパリを離れ、ボルドーへ退避しました。これは首都陥落への恐怖が現実化していたことを示します。政府が前線から遠く離れたこと、またミルラン陸軍相が総司令官ジョゼフ・ジョフルに大きな裁量を与えたことから、初期の戦争指導は軍部優位の色彩を帯びました。総司令部が置かれたシャンティイを中心に軍が強い影響力を持ったため、この状況は後に「シャンティイの独裁」と呼ばれることもありました。

 しかし9月5日から12日にかけてのマルヌ会戦で、フランス軍とイギリス軍はドイツ軍の進撃を食い止めました。ドイツ軍は後退し、パリは救われました。とはいえ、これは決定的勝利ではありませんでした。その後、両軍は北海沿岸を目指して互いの側面を回り込もうとする「海への競走」を行いましたが、最終的には北海からスイス国境まで延びる戦線が固定化されました。塹壕、鉄条網、機関銃、重砲に守られた陣地戦が始まり、短期戦への期待は崩れ去りました。

マルヌ会戦、 ムーの戦い(1914年9月)- Wikipedia

Ⅴ.長期戦と議会政治の再起動

 1914年末になると、戦争がすぐには終わらないことが明らかになりました。そこで第三共和政は、議会を完全に停止させたまま戦争を続けることはできないと判断しました。12月22日、議会は臨時会を開き、1915年前半の戦費を承認し、政府が議会休会中に発した命令を追認しました。また、戦時中は予定されていた選挙を延期することも決められました。

 1915年1月以降、議会は次第に政府への監督を回復しました。ただし、前線の軍事情報や国家防衛にかかわる問題を公開本会議で議論すれば、敵国に情報を与え、国内の分裂も露呈しかねません。そのため、フランスの議会政治は通常とは異なるかたちで機能することになりました。議員は公開討論を控え、委員会や秘密委員会を主な活動場所としました。

 重要だったのは、各種の常任委員会です。とりわけ両院の軍事委員会は、政府や軍部から情報を聞き取り、兵器生産、補給、兵士の待遇、作戦指導などを監督しようとしました。委員会は大臣や首相を呼び出し、説明を要求できました。この仕組みにより、議会は非常時にも完全に無力化されず、行政・軍部を監視する役割を保ちました。第三共和政は、強力な大統領独裁へ移行するのではなく、議会の統制機能を変形させながら戦争を継続しました。

Ⅵ.戦場・占領地・銃後のフランス

 第一次大戦期のフランスは、一つの均質な国家空間ではありませんでした。北部・東部の一部はドイツ軍に占領され、前線地帯、占領地、後方地域という三つの異なる現実が生まれました。占領地では、住民は徴発、移動制限、情報統制、物資不足、強制労働などに苦しみました。フランスにとって戦争は、遠い国境で行われる戦いではなく、自国領土の一部が敵軍に支配される戦争でした。

 前線の兵士たちは「ポワリュ(poilu)」と呼ばれました。彼らは泥だらけの塹壕、砲撃、病気、寒さ、害虫、長い待機、突然の攻撃という生活を強いられました。兵士の日常は、激しい戦闘だけでなく、長時間の労働と退屈、家族への手紙、仲間同士の支えによって成り立っていました。戦闘時には砲兵による大量砲撃と歩兵突撃が繰り返され、多くの兵士が戦死・負傷しました。フランスは戦争全体で約790万人を動員し、約140万人が死亡、420万人以上が負傷するという膨大な人的損失を被ることになります。

塹壕の中にいるポワリュ - Wikipedia

 後方でも、戦争は生活の隅々を変えました。男性が大量動員されたため、女性が農業や軍需工場で重要な役割を担うようになりました。軍需工場で働く女性は「ミュニショネット」と呼ばれました。さらに外国人労働者や植民地出身者も動員されました。軍需産業の就業者は、開戦時の約5万人から、終戦時には約170万人へと増加し、そのうち42万人以上が女性でした。

第一次世界大戦中、キルンハースト製鉄所で軍需工場労働者(munitionettes)として働く女性たち。スタンホープ・フォーブスが描いた作品 - Wikipedia

Ⅶ.1915年の攻勢と消耗戦

 1915年、フランス軍首脳部は塹壕戦の膠着を突破しようとしました。アルトワ、シャンパーニュ、ヴォージュなどで攻勢が行われましたが、砲撃で敵の防御陣地を破壊し、歩兵突撃で突破口を開くという構想は期待通りには成功しませんでした。機関銃、鉄条網、地下壕、予備陣地を備えたドイツ軍の防御は強固であり、攻撃側は大きな犠牲を払いました。

第二次アルトワ会戦、ロレット高地(ノートルダム・ド・ロレット)の戦い - Wikipedia

 1915年はフランスにとって特に犠牲の大きい年でした。約35万人が死亡し、戦争全体で見ても最悪級の損失となりました。戦争指導部は依然として「決定的突破」が可能だと考えていましたが、実際には攻撃を重ねるほど人的資源が消耗しました。この時期、兵士の勇気や愛国心だけでは勝利できず、弾薬、砲兵、生産力、輸送、補給、そして同盟国との協力が戦争の帰趨を決めることが明白になりました。

 この状況は第三共和政の政治にも影響しました。政府は軍事作戦の失敗について議会から批判され、軍部と文民政府の関係が問題化しました。しかし神聖同盟のもとでは、政府を公然と倒して政治危機を招くことには慎重な姿勢が取られました。政府は本会議での不信任決議によって倒されるよりも、委員会での批判や議員の支持喪失を察知して、自発的に辞任する場合が多くなりました。

Ⅷ.1916年、ヴェルダンとソンム

 1916年2月、ドイツ軍はヴェルダンを攻撃しました。ヴェルダンはフランス国民にとって象徴的な要塞地帯であり、その防衛は単なる軍事作戦を超え、祖国の名誉と存続をかけた戦いと受け止められました。ドイツ軍はフランス軍を消耗させることを狙いましたが、フランス軍はフィリップ・ペタンらの指揮のもとで抵抗しました。

ヴェルダンの戦い、ドイツ軍兵士によるル・モールトムへの攻撃 - Wikipedia

 ヴェルダン戦では、「聖なる道」と呼ばれた補給路が重要な役割を果たしました。トラック輸送によって兵員と物資が前線へ送り続けられ、週あたり約9万人の兵員と5万トンの物資が運ばれました。1日には6,000台から8,000台の車両がこの道路を通ったとされます。フランス軍は部隊を交代で投入することで、特定の部隊だけに負担が集中しないよう努めました。

ヴェルダンの戦いにおける道路を描いたフランスの挿絵 - Wikipedia

 ヴェルダン戦は1916年末まで続き、フランス側は行方不明・戦死約16万人、ドイツ側は14万人超を失ったとされます。負傷者も双方で約20万人に達しました。ドイツ軍は突破に成功せず、フランスも敵を決定的に打ち破ることはできませんでした。しかしフランス社会にとって、「彼らは通さない」という防衛の象徴となり、ヴェルダンは国家的記憶の中心を占めることになりました。

 同年夏には、イギリス軍とフランス軍がソンムで大攻勢を開始しました。ソンム会戦はヴェルダンより広範な地域で行われ、イギリス帝国、フランス、ドイツの膨大な兵力と工業力が投入されました。しかしここでも戦線の突破は果たせず、戦闘開始から秋までに全体で約120万人に近い死傷者が出たとみられています。1916年は、近代工業戦争が人間を大量に消耗させる現実を決定的に示した年でした。

1916年9月25日、ティプヴァル付近にいるイギリス軍のマークI型(雄型)戦車 - Wikipedia

Ⅸ.1917年の軍事・社会・政治危機

 1917年、フランスは軍事、社会、政治の三つの危機に同時に直面しました。まず軍事面では、1916年末に総司令官ジョフルが更迭され、ロベール・ニヴェルが後任となりました。ニヴェルは大規模な砲撃と迅速な攻勢によって短期間でドイツ軍戦線を突破できると主張し、大きな期待を集めました。

ロベール・ニヴェル - Wikipedia

 1917年4月、ニヴェル攻勢がエーヌ県のシュマン・デ・ダムで開始されました。しかし作戦は失敗し、目標を達成できないまま、フランス軍は約4万人の戦死者、1万4,000人の行方不明者、12万5,000人の負傷者を出しました。この失敗は兵士たちに深い失望を与えました。戦争が終わらないこと、無謀な攻勢が繰り返されることへの不信が強まり、各地の部隊で反乱、すなわち兵士の「抗命」が発生しました。

ニヴェル攻勢で初めて実戦投入されたフランス軍のサン・シャモン突撃戦車 - Wikipedia

 これらの反乱は、兵士たちが一斉に敵前逃亡したり、祖国防衛を全面否定したりしたものではありませんでした。多くの兵士は防衛には応じる一方、成功の見込みが乏しい大規模攻勢への参加を拒みました。後任のペタンは、厳しい軍紀処分を行うと同時に、休暇、食事、補給、部隊交代などの改善を進めました。これによりフランス軍は完全崩壊を避け、1917年後半には防御を基本とする態勢を立て直していきました。

 社会面でも不満が高まりました。長期戦による疲労、戦死者への哀悼、物資不足、インフレ、厳寒の冬、労働負担の増大が重なりました。1917年第1四半期には物価が平均25%上昇し、食料や燃料の確保は深刻な問題となりました。軍需工場では賃金や労働条件をめぐるストライキが発生し、神聖同盟は目に見えて弱体化しました。

Ⅹ.神聖同盟の崩壊とクレマンソー政権

 1917年には政治危機も深まりました。3月にはブリアン内閣に代わってアレクサンドル・リボ内閣が成立し、9月にはポール・パンルヴェ内閣が発足しました。しかし、ロシア革命による東部戦線の不安定化、ニヴェル攻勢の失敗、兵士反乱、ストライキ、講和論争が政府の基盤を揺るがしました。社会党は、ストックホルムで予定されていた国際平和会議への代表派遣問題などをめぐって政府との対立を深め、1917年9月にはパンルヴェ内閣への参加を拒みました。これにより、1914年以来の神聖同盟は事実上終わりました。

 内相ルイ・マルヴィは、平和主義者に甘い、あるいは国家への忠誠を欠く人物に寛容だと非難され、1917年8月31日に辞任へ追い込まれました。また、元首相ジョゼフ・カイヨーやブリアンにも、オーストリア=ハンガリーとの単独講和を探っているのではないかという疑惑が向けられました。こうした「敗北主義者」「裏切り者」「怠け者」への攻撃を強く展開したのが、元首相で上院議員のジョルジュ・クレマンソーでした。

ジョルジュ・クレマンソー - Wikipedia

 パンルヴェ内閣は1917年11月13日、下院で敗北しました。ポアンカレ大統領は、かねて政府や軍部を厳しく批判してきたクレマンソーに組閣を依頼しました。クレマンソーは11月16日に首相となり、自ら陸軍相も兼任しました。彼の政権は、1914年のような全国政党の完全な一致に支えられたものではなく、社会党の多くが反対する中での多数派政権でした。

 クレマンソーは「全面戦争」を掲げ、勝利まで戦争を継続する姿勢を明確にしました。彼は平和主義者や敗北主義者への取り締まりを強化しながらも、議会そのものを停止させたわけではありませんでした。議会に出席して方針を説明し、委員会の要求にも応じました。すなわち1917年末の第三共和政は、厳しい戦時統制と強い首相指導のもとに置かれながらも、1875年以来の議会共和政という枠組みを完全には放棄しませんでした。

 1917年末のクレマンソー政権成立は、フランスが疲弊と分裂を抱えながらも、戦争から離脱せず、1918年の最終局面へ進むための政治的転換点でした。第三共和政は、短期戦を前提に始まった戦争のなかで、議会政治、軍事指導、産業動員、社会統合を何度も調整し直しながら生き延びました。

 

 このコインの鑑定枚数(1915年発行)は、PCGSでは55枚あり、Top PopはMS66となります。NGCでは見当たりませんでした。このコインは1899年~1920年の間の17年間(歯抜けあり)発行され、1889年発行のマット・フラン(つや消しの平金)がわずか1枚のみ確認されているようです。このコインは、2025年6月3日のCGBLiveでの落札価格は1,000ユーロとの記録が残っています。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙

コイン探求の旅 #232 『フランス共和国(第三共和政) 5フラン銀貨 ヘラクレス』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス共和国(第三共和政) 5フラン銀貨 ヘラクレス』です。

発行国  フランス共和国(第三共和政)
材質  シルバー
品位  0.9
発行年  1873年
発行枚数  27,192,181
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面には中央に棍棒とライオンの毛皮を持つヘラクレスと左に自由(Liberté)、右に平等(Égalité)の寓意像が描かれ、その周囲にフランス語でフランス共和国の標語である「自由・平等・友愛」、下に「デュプレ(エングレイバーのオーギュスタン・デュプレを示す)」と刻まれています。裏面には外周左側に月桂樹の枝、外周右側にオリーブの枝が描かれ、2本の枝の外側にフランス語で「フランス共和国」、中央に額面の「5フラン」と西暦の発行年「1873」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、オーギュスタン・デュプレが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=5

 このコインは、フランス共和国(第三共和政)において発行されたコインです。今回は、パリ・コミューン終結から第一次世界大戦開戦前までについて解説します。

フランス第三共和政 - Wikipedia

 国防政府とパリ・コミューンについては、#231で解説しましたので、そちらを参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

Ⅰ.パリ・コミューンの終結と戦後再建

 1871年5月、政府軍による「血の週間」を経てパリ・コミューンは鎮圧されました。普仏戦争に敗北したフランスは、第二帝政の崩壊、ドイツ軍による国土占領とパリ包囲、そして首都における革命的蜂起という深刻な危機を経験していました。コミューンの終結は内戦状態の終息を意味しましたが、同時にフランス社会に長く残る政治的・階級的対立を生み出しました。

 フランス政府はドイツとの講和を急ぐ必要がありました。1871年5月10日のフランクフルト講和条約によって、フランスはアルザスの大部分とロレーヌの一部をドイツ帝国へ割譲し、50億フランもの賠償金を支払うことになりました。アルザス=ロレーヌの喪失はフランス国民に大きな衝撃を与え、対独報復を意味する「ルヴァンシュ」の感情を生み出しました。しかし当面の政府にとって重要だったのは、報復戦争ではなく、財政・軍事・行政の再建と国内秩序の回復でした。

アルザス=ロレーヌ - Wikipedia

 アドルフ・ティエールの指導下で、フランスは公債募集などを通じて賠償金を比較的早く支払い、1873年までにドイツ占領軍の撤退を実現しました。この過程は、敗戦後のフランスがなお高い経済力と金融力を維持していたことを示しています。また、普仏戦争で明らかとなった軍事的弱点を克服するため、兵役制度と軍隊組織の再編も進められました。

Ⅱ.王政復古の失敗と第三共和政の成立

 普仏戦争後の国民議会では、王党派が多数を占めていました。王党派には、ブルボン家の復位を望む正統王党派、オルレアン家を支持するオルレアン派、ナポレオン家を支持するボナパルト派が存在していました。彼らは共和政を恒久的な制度とは見なさず、いずれ君主制を復活させることを期待していました。

 1873年、ティエールは議会多数派の反発によって大統領を辞任し、後任には保守派が支持するパトリス・ド・マクマオン元帥が就任しました。マクマオンは王政復古の可能性を保つ人物とみなされており、彼の登場によって共和政は再び不安定になりました。

パトリス・ド・マクマオン - Wikipedia

 しかし、王政復古は実現しませんでした。正統王党派が推したシャンボール伯アンリは、王位に就く条件として革命以来の三色旗を拒み、ブルボン王家の白旗の復活を求めました。この要求はオルレアン派などとの妥協を不可能にしました。王党派は政体復古を望みながら、王位継承者と国旗をめぐる対立を解決できませんでした。

アンリ・ダルトワ - Wikipedia

 その結果、1875年に一連の憲法的法律が制定され、第三共和政が制度的に確立されました。大統領は上下両院合同の国民議会によって選出され、任期は7年とされました。立法府は代議院と元老院の二院制となり、内閣は議会の支持を必要とする制度となりました。共和政は当初、積極的な国民的合意から生まれたというより、王党派の分裂と政治的妥協の結果として成立しました。

Ⅲ.1877年5月16日危機と議会共和政

 1876年の選挙では、共和派が代議院で優位を獲得しました。しかし、マクマオン大統領は共和派の進出を警戒し、保守的な政治運営を維持しようとしました。1877年5月16日、マクマオンは共和派のジュール・シモン内閣を退陣させ、保守派のブロイ公を首班とする内閣を任命しました。

アルベール・ド・ブロイ - Wikipedia

 大統領は代議院との対立を深め、最終的に議会を解散して総選挙に持ち込みました。これは共和政の性格を決める重要な局面でした。すなわち、大統領が強い独自の政治権限を持つのか、それとも議会多数派の意思が政権運営を決めるのかが問われました。

 1877年10月の総選挙では、共和派が再び多数を獲得しました。レオン・ガンベタは、マクマオン大統領に対して「服従するか、退陣するか」と迫り、大統領が議会の意思に反して統治することは認められないと主張しました。マクマオンは1879年1月に辞任し、ジュール・グレヴィが大統領となりました。

ジュール・グレヴィ - Wikipedia

 この危機の結末によって、第三共和政は大統領中心の政体ではなく、議会が優位を占める議会共和政として定着しました。以後、大統領は政治的に抑制的な役割に置かれ、内閣は議会内の多数派によって支えられることになりました。王政復古の可能性も、この時点で事実上失われました。

Ⅳ.共和主義国家の建設と教育改革

 1879年以降、共和派は国家の象徴、教育制度、行政機構を共和主義の理念に適合させようとしました。政府と議会はヴェルサイユからパリへ戻され、1880年には7月14日が国祭日として制定されました。また、『ラ・マルセイエーズ』は国歌として位置づけられ、フランス革命の伝統と共和政とを結びつける象徴となりました。

ラ・マルセイエーズを初披露するルジェ・ド・リール大尉。彼が出征する部隊を鼓舞するために、一夜にして作詞作曲したというのが定説 - Wikipedia

 この時期に最も重要な改革を主導した人物がジュール・フェリーです。フェリーは、近代国家の基礎は初等教育にあると考えました。1881年には初等教育無償法が成立し、1882年には初等教育の義務化と世俗化を定める法律が制定されました。子どもたちは公立学校において、フランス語、歴史、地理、算数だけでなく、共和国の市民として必要な道徳と国民意識を学ぶことになりました。

ジュール・フェリー - Wikipedia

 教育改革には反教権主義の側面もありました。カトリック教会は教育を通じて社会に強い影響を持っていましたが、共和派は国家の教育を教会から切り離す必要があると考えました。公教育の世俗化は、宗教を完全に排除するというより、教会の政治的・教育的特権を制限し、国家が市民教育の主導権を得ることを目的としていました。

 さらに1881年の出版自由法は報道活動を広く保障し、1884年には労働組合が合法化されました。同年の市町村法は地方自治の制度を整え、市長を原則として地方議会が選出する仕組みを確立しました。第三共和政は教育、言論、地方行政を通じて、共和主義を社会の隅々まで根づかせようとしました。

Ⅴ.植民地帝国の拡張

 1880年代のフランスは、ヨーロッパでの敗戦を補うように、アフリカとアジアにおける植民地拡張を進めました。植民地政策を積極的に推進した代表的人物がジュール・フェリーでした。フェリーは、植民地がフランス産業に市場と原料を提供し、海軍基地と戦略拠点を確保し、さらにフランスの国際的威信を高めると考えました。

 1881年、フランスはチュニジアを保護国化しました。続いて東南アジアではベトナム地域への軍事・政治的介入を強め、1883年以後、アンナンとトンキンに支配を広げました。1884年から1885年にかけての清仏戦争を経て、フランスはインドシナ半島における支配を強化しました。のちにフランス領インドシナと呼ばれる植民地体制の基礎は、この時期に築かれました。

日本で描かれた三代目歌川国貞作の「清仏戦争図」 - Wikipedia

 しかし、植民地拡張は国内で強い反対にも直面しました。反対者たちは、フランスが最優先すべきなのはドイツに対する安全保障であり、遠隔地での軍事遠征に人員と財政を投入することではないと主張しました。ジョルジュ・クレマンソーらの急進派は、フェリーの植民地政策を激しく批判しました。

 1885年、トンキンにおけるフランス軍の後退が政治問題化し、フェリー内閣は倒れました。それでも植民地拡張そのものは止まらず、フランスはアフリカ西部・中央部、マダガスカル、インドシナなどに広大な植民地領域を築いていきました。植民地帝国は第三共和政の威信と経済的利益を支えましたが、支配地域の住民に対する軍事的制圧、収奪、不平等な統治を伴うものでした。

ランソン攻勢の一場面 - Wikipedia

Ⅵ.ブーランジェ事件と反議会主義

 1880年代後半、第三共和政はブーランジェ事件という重大な政治危機に見舞われました。ジョルジュ・ブーランジェ将軍は、陸軍大臣として軍改革を進め、ドイツに対する強硬な態度を示したことで人気を得ました。彼は普仏戦争後の屈辱を晴らし、アルザス=ロレーヌを取り戻す人物として期待され、「復讐将軍」と呼ばれました。

ジョルジュ・ブーランジェ - Wikipedia

 ブーランジェを支持した人々は一枚岩ではありませんでした。王党派は共和政を弱体化させるために彼を利用しようとし、急進派の一部は既成政治への不満から彼に期待しました。また、議会政治の分裂と汚職を嫌う人々、経済的不安を抱える人々、国家の強力な指導者を求める人々も彼の運動に加わりました。

 1889年1月、ブーランジェはパリ補欠選挙で大勝しました。多くの支持者は、彼が直ちに政権を掌握し、議会を解散し、憲法を改正するのではないかと期待しました。しかし、ブーランジェ自身はクーデタに踏み切る決断をしませんでした。政府が彼を国家転覆の疑いで訴追しようとすると、彼はベルギーへ逃亡しました。

 ブーランジェ運動は指導者を失って急速に衰退し、1891年にブーランジェは彼の愛人だったマルグリット・ド・ボヌマンス夫人の死を嘆いて、彼女の墓前でピストル自殺しました。事件は共和国にとって危険な試練でしたが、第三共和政が軍人の個人的人気と権威主義的政治運動を抑え込んだことを示しました。一方で、反議会主義、民族主義、強力な指導者への期待は消滅せず、後のフランス政治にも影響を残しました。

Ⅶ.露仏同盟とフランス外交の転換

 普仏戦争後のフランスは、ドイツ帝国による外交的孤立を警戒していました。ドイツのビスマルクは、フランスがアルザス=ロレーヌの奪回を目指して報復戦争を始めることを防ぐため、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアの関係を調整し、フランスを孤立させようとしました。

 フランスにとって、ドイツの軍事力に対抗するには有力な同盟国が必要でした。そこで1890年代初頭から、フランスはロシア帝国との接近を進めました。両国は政体の面では対照的でした。フランスは議会共和政であり、ロシアは皇帝専制国家でした。しかし、ドイツとオーストリア=ハンガリーの連携に対抗するという共通の戦略的利益が、両国を結びつけました。

 1891年、フランスとロシアは国際危機の際に協議するための了解に達しました。1892年には軍事協約が結ばれ、1894年に露仏同盟が正式に成立しました。この同盟は、ドイツまたはその同盟国の攻撃に対して相互に軍事援助を行うことを想定したものでした。露仏同盟によってフランスは、1871年以来の外交的孤立を脱し、ドイツに対して東西から圧力をかけ得る国際的立場を得ました。

フランスの雑誌「Le Petit Journal」1893年10月号の表紙。ロシアとフランスの国旗を交えるイラストで、露仏同盟を報じている - Wikipedia

 経済的な結び付きも重要でした。フランスの銀行や個人投資家はロシア国債、鉄道建設、工業事業へ多額の資金を投じました。ロシアへの投資はフランスの金融界に利益をもたらすとともに、両国の同盟関係を社会的・経済的にも支えました。露仏同盟は、後に第一次世界大戦へ至るヨーロッパの同盟構造を形成する重要な要素となりました。

Ⅷ.ドレフュス事件と共和国の試練

 1894年、ユダヤ系のフランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスが、ドイツへ軍事機密を漏らしたとして逮捕されました。軍事裁判は不十分な証拠に基づいて彼を有罪とし、ドレフュスは軍籍剥奪のうえ、フランス領ギアナ沖のディアブル島(日本語名は悪魔島または鬼ヶ島)へ流刑となりました。

1898年、デビルズ島の部屋にいるアルフレッド・ドレフュス。F・ハーメル(アルトナ=ハンブルク)によって販売されたステレオ写真……フリッツ・ラッハムント・コレクション - Wikipedia

 その後、情報漏洩の真犯人がフェルディナン・ヴァルサン・エステルアジ少佐である可能性が明らかになりました。しかし軍上層部は、最初の有罪判決を誤りと認めれば軍の権威が失われると恐れ、再審を妨げようとしました。さらに、偽造文書の作成や証拠隠蔽も行われました。

 ドレフュス事件はフランス社会を二分しました。反ドレフュス派には軍の名誉と国家の安全を優先する勢力、カトリック保守派、王党派、民族主義者、反ユダヤ主義者が多く含まれていました。これに対し、ドレフュス派には共和派、社会主義者、自由主義者、知識人、法曹関係者などが集まり、法の支配、再審、人権の尊重を要求しました。

ドレフュス事件をめぐって二分する世論を風刺した、カラン・ダッシュによる漫画。上のコマには「特に!ドレフュス事件については議論しないように!」、下のコマには「議論してしまったようだ…」とキャプションされている - Wikipedia

 1898年1月、作家エミール・ゾラは新聞『オーロール』に公開状「私は弾劾する」を発表しました。ゾラは軍部と政府が冤罪を維持していると告発し、事件を全国的な政治問題へと発展させました。彼自身は名誉毀損罪で有罪となり、一時イギリスへ亡命しましたが、その文章は共和国における知識人の政治参加を象徴するものとなりました。

公開状が掲載されたオーロール紙の扉 - Wikipedia

 1899年、ドレフュスは再審を受けましたが、軍事裁判所は再び有罪としました。彼は大統領恩赦を受けて釈放され、1906年には破毀院によって完全に無罪とされ、軍籍に復帰しました。ドレフュス事件は、軍の権威が法より上位に置かれるべきではないこと、民族主義と反ユダヤ主義が民主的社会を脅かし得ることを示しました。

Ⅸ.政教分離と社会の近代化

 ドレフュス事件後、第三共和政は共和制を防衛し、カトリック教会の政治的影響力を抑制する方向へ進みました。1899年にはピエール・ワルデック=ルソー内閣が成立し、共和派の結集による政治的安定が図られました。続くエミール・コンブ内閣は、教育・政治における修道会の影響を縮小する反教権主義政策を強力に進めました。

 1905年12月9日、国家と教会を分離する法律が制定されました。この政教分離法は、国家が特定の宗教を公認し、財政支援する制度を廃止し、信教の自由を保障するものでした。フランスのライシテ、すなわち国家の世俗性という原則は、この法律によって決定的な形を与えられました。

 この法律は、個人が宗教を信じる自由を否定するものではありませんでした。むしろ国家が特定教会に依拠せず、すべての市民を法の下で平等に扱うことを目指したものでした。ただし、教会財産の扱いや宗教施設の管理などをめぐって、カトリック教会と共和国政府の関係は悪化しました。

 同時期のフランスでは都市文化と科学技術が発展しました。1900年のパリ万国博覧会は、電気、交通、建築、芸術、消費文化が結び付いたベル・エポックの象徴でした。パリでは地下鉄メトロが開業し、映画、自動車、百貨店、新聞、大衆娯楽が市民生活を変化させました。

1900年パリ万博のパノラマビュー - Wikipedia

 しかし、ベル・エポックの繁栄の背後には社会的不平等が存在しました。労働者は長時間労働、低賃金、事故や失業の危険に直面していました。労働運動と社会主義運動は成長し、1905年にはフランス社会党、SFIOが結成されました。ジャン・ジョレスはその代表的指導者となり、社会改革と国際平和を訴えました。

Ⅹ.協商体制と第一次世界大戦への道

 20世紀初頭、フランス外交は露仏同盟を基礎として、英国との関係改善を進めました。フランスと英国は長く植民地問題で対立してきましたが、ドイツ帝国の海軍拡張と世界政策が両国の接近を促しました。フランスにとって英国との協調は、対独抑止を一層強める手段でした。

 1904年4月、英仏協商が成立しました。両国は植民地をめぐる対立を整理し、英国はエジプトでの優位を、フランスはモロッコでの優位を相互に認めました。英仏協商は正式な軍事同盟ではありませんでしたが、両国の戦略的な関係改善を意味する重要な合意でした。

英仏協商の締結を記念する絵葉書。ブリタニア(左)とマリアンヌ(右)が手をとって踊っている - Wikipedia

 1905年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコのタンジールを訪問し、モロッコの独立を支持すると表明しました。第一次モロッコ危機は、フランスの北アフリカ政策に対するドイツの挑戦でした。しかし、1906年のアルヘシラス会議ではフランスが外交的に有利な位置を保ち、英国もフランスを支持しました。ドイツの圧力は英仏協商を弱めるどころか、両国の協力を強める結果となりました。

 1907年には英露協商が成立し、露仏同盟と英仏協商を基礎とする三国協商の枠組みが整いました。ただし、三国協商は単一の軍事同盟条約ではなく、二国間の協定と戦略的協調の集合でした。それでも、ドイツ・オーストリア=ハンガリーを中心とする三国同盟に対抗する国際構図は明確になりました。

三国同盟(赤)と三国協商(青) - Wikipedia

 1911年には第二次モロッコ危機が起きました。フランスがモロッコ内陸部へ軍を進めると、ドイツは砲艦パンターをアガディールへ派遣しました。戦争の危険は高まりましたが、最終的にフランスはモロッコ保護国化を認められ、その代償としてフランス領コンゴの一部をドイツへ譲渡しました。1912年にはモロッコ保護条約によってフランス保護領モロッコが正式に成立しました。

 1913年、レイモン・ポアンカレが大統領に就任しました。彼は対独警戒と露仏同盟の維持を重視し、フランスの軍事力強化を支持しました。同年には兵役期間を2年から3年へ延長する三年兵役法が成立しました。これは人口でドイツに劣るフランスが動員可能な兵力を増やし、国境防衛を強化しようとする政策でした。

 1914年6月28日、サラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺されました。この事件を契機として、バルカン半島の地域紛争はヨーロッパ規模の危機へと発展しました。フランスはロシアとの同盟関係を維持し、ドイツの圧力に対して孤立しない立場を取ろうとしました。

イタリアの新聞『ドメニカ・デル・コリエーレ』の号の第1面。アキッレ・ベルトラーメによる、サラエボでオーストリア大公フランツ・フェルディナントがガヴリロ・プリンツィプに暗殺される場面を描いた絵が掲載されている - Wikipedia

 1871年の敗戦とパリ・コミューン終結後に出発した第三共和政は、王政復古の試み、政治スキャンダル、軍人による権威主義的挑戦、ドレフュス事件、宗教問題、植民地紛争を乗り越えて存続しました。しかし、対独警戒を軸に組み立てられた同盟外交と軍備拡張は、1914年の欧州戦争にフランスを深く関与させることになりました。第三共和政は国内では共和主義的制度を定着させながら、国際的には大戦という試練に直面する段階へ入っていきました。

 

 このコインの鑑定枚数(1873年発行、パリミント、ラージスター)は、PCGSでは990枚あり、Top PopはMS67となります。NGCは区分が不明のためよく分かりませんでした(Top PopはMS67?)。このコインは1870年~1878年の間の9年間と、1889年に発行され、最も発行枚数が少ないのは1889年発行のPL20枚と思われます。さほど高いグレードでなくても高値が付くコインですので、1889年発行のハイグレードは非常に希少で、かなりの高値になると思われます。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙

コイン探求の旅 #231 『フランス共和国(第三共和政) 2フラン銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス共和国(第三共和政) 2フラン銀貨』です。

発行国  フランス共和国(第三共和政)
材質  シルバー
品位  0.835
発行年  1871年
発行枚数  4,709,003
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF~XF相当
サイズ

 このコインは、表面には中央に穀物の女神セレス(豊穣や農業の象徴)が描かれ、その周囲にフランス語で「フランス共和国」、下に「E.A.ウディネ.F.(ウジェーヌ=アンドレ・ウディネのこと)」と刻まれています。裏面には外周左側に月桂樹の枝、外周右側にオリーブの枝が描かれ、2本の枝の外側にフランス語で「自由・平等・友愛」、中央に額面の「2フラン」と西暦の発行年「1871」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、ウジェーヌ=アンドレ・ウディネが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=59

 このコインは、フランス共和国において発行されたコインです。発行年の1871年は、第二帝政が廃止され国防政府が成立した年になります。今回は、国防政府とパリ・コミューンについて解説します。

フランス第三共和政 - Wikipedia

 ナポレオン3世については、#230で解説しましたので、そちらを参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

Ⅰ.国防政府の成立

 1870年に始まった普仏戦争において、ナポレオン3世がセダンで敗北し、プロイセン軍の捕虜となったことがパリに伝わると、議会内の共和派議員とパリの民衆は、第二帝政の廃止を要求しました。1870年9月4日、群衆がブルボン宮殿や市庁舎周辺に集まり、帝政の終結と共和政の樹立を求めました。

 この日、立法府では第二帝政の廃止が宣言され、フランス第三共和政が成立しました。同時に、戦争を継続し、国家の防衛を担う臨時政府として、国防政府が設置されました。国防政府は、正式な憲法に基づく恒久政権ではなく、戦争と国家的危機に対処するための暫定政権でした。

「国防政府(国民防衛政府)の閣僚たちの胸像肖像。上から下へ、左から右へ:ジュール・ファーヴル、トロシュ将軍、レオン・ガンベタ、エマニュエル・アラゴ、アドルフ・クレミュー、アンリ・ロシュフォール、エルネスト・ピカール、アレクサンドル・グレ=ビゾワン、ジュール・シモン、ルイ・ガルニエ=パジェス、ジュール・フェリー、カミーユ・ペルタン。ルメルシエ印刷所、1870年頃 - Wikipedia

 国防政府の中心人物には、陸軍総司令官でありパリ軍政総督でもあったルイ=ジュール・トロシュ将軍、外相ジュール・ファーヴル、内相レオン・ガンベタ、財政を担当したエルネスト・ピカールらがいました。トロシュが形式上の議長となりましたが、最も積極的に戦争継続を主張した人物はガンベタでした。第三共和政は、初めから安定した議会政治の体制として始まったのではなく、敗戦と包囲の中で生まれた戦時共和政でした。

ルイ・ジュール・トロシュ将軍、パリ軍政総督 — Wikipédia

 国防政府は、第二帝政を批判していた共和派によって構成されていました。しかし、政権の当面の最優先課題は、共和政の制度設計ではなく、プロイセン軍に対する抵抗でした。

 国防政府は、フランスの領土と要塞を守り、可能な限り戦争を継続する方針を示しました。ファーヴルは、「領土の一寸たりとも、要塞の石一つたりとも譲らない」という趣旨の声明を発表しました。この強硬な姿勢は、パリ市民の愛国心と革命的情熱に訴えるものでした。

ジュール・ファーヴル - Wikipedia

 しかし、フランス軍の主要部隊が相次いで敗北していたため、国防政府が利用できる軍事力は限られていました。政府は国民衛兵を増員し、パリの防衛体制を整えました。国民衛兵は、もともと市民から構成される武装組織でしたが、包囲戦が始まるとその規模は急速に膨張しました。多くの労働者も国民衛兵に参加し、わずかな給与を受け取りながらパリの城壁や要塞を守りました。

 プロイセン軍はフランス軍を破りながら進撃し、1870年9月中旬にはパリを包囲しました。パリ包囲戦は、1870年9月19日から1871年1月28日まで続きました。

 パリは多数の兵士と国民衛兵によって防衛されていましたが、都市内部には深刻な問題がありました。食料の不足、物価の上昇、暖房用燃料の欠乏、失業、砲撃への恐怖が市民生活を圧迫しました。馬が食用にされ、動物園の動物まで食料として売られる状況になりました。

パリ包囲戦のさなか、食肉を確保するため、植物園の象が銃撃によって射殺された — Wikipédia

 包囲が長期化するにつれ、市民の間には政府に対する不信が強まりました。パリ市民は、政府が戦争を続けると約束しながら、実際には有効な作戦を実行できていないと感じました。特に労働者や急進共和派は、国防政府が本気で革命的な共和政を実現するのか、それとも旧来の官僚・軍人・ブルジョワ層の利益を維持するのかを疑問視しました。

Ⅱ.政府の分裂と戦争継続

 レオン・ガンベタは、パリが包囲されると政府の一部を地方へ移し、全国規模の抵抗運動を組織しようとしました。1870年10月7日、彼は気球に乗ってパリを脱出しました。これは、包囲された都市から政府の閣僚が気球で脱出するという、近代戦史上きわめて印象的な出来事でした。

パリ包囲戦のさなか、レオン・ガンベタが気球に乗って首都を脱出する様子。ジャック・ギオーとジュール・ディディエによる絵画、1871年、カルナヴァレ美術館所蔵 — Wikipédia

 ガンベタはトゥールに到着し、地方における国防政府の代表として軍隊の再編成を進めました。その後、政府機関はボルドーへ移されました。ガンベタは内相であると同時に、事実上の陸相として活動し、各地で新たな軍隊を編成しました。

 ガンベタの政策は、徴兵と動員を拡大し、フランス全土から兵力を集めるというものでした。ロワール軍、北方軍、東方軍などが編成され、パリの救援を試みました。しかし、これらの軍隊は短期間で編成されたため、訓練、装備、指揮の面で十分ではありませんでした。将校団にも分裂があり、経験豊富な正規軍と急造された部隊の間には大きな差がありました。

 フランス軍はオルレアン、ル・マン、北フランスなどでプロイセン軍と交戦しました。いくつかの局地的勝利はありましたが、パリを救援する決定的な反攻には成功しませんでした。

 1870年12月にはロワール軍が敗退し、1871年1月にはル・マンの戦いでもフランス軍が大きな損害を受けました。北方や東部の軍隊もプロイセン軍を撃退できませんでした。

1870年のプロイセンとの戦い、ル・マンから数キロメートル離れたオヴール(Auvours)の戦場。フランス軍の兵士でもあったサルト県出身の画家リオネル・ロワイエによる絵画 - Wikipedia

 国防政府は、戦争継続派と休戦・和平派に分裂しました。ガンベタは最後まで抵抗を続けようとしましたが、トロシュやファーヴルらは、パリの状況を考慮すると戦争を継続することは困難だと認識していました。

Ⅲ.パリの不満と蜂起の前段階

 パリ市民の不満は、軍事的敗北が明らかになるにつれて激化しました。1870年10月27日、メスのフランス軍が降伏したという知らせが伝わると、パリでは政府への怒りが一気に高まりました。

 10月31日、急進共和派、社会主義者、ブランキ派、国民衛兵の一部が市庁舎を占拠しました。彼らは国防政府の退陣、パリの自治、コミューンの選挙を要求しました。一部の革命派は、国防政府が裏切って降伏を準備していると考えていました。

 この蜂起では、ルイ=オーギュスト・ブランキの支持者などが中心的な役割を果たしました。政府は一時的に圧倒されましたが、穏健共和派の国民衛兵やパリ市民の一部を動員して、市庁舎を奪回しました。

ルイ・オーギュスト・ブランキ - Wikipedia

 国防政府は、蜂起を抑えるため、パリ市民に対してコミューン選挙などを約束しました。しかし、政府はこの約束を直ちに実行するつもりではありませんでした。この経験は、急進派の間に「政府は民衆を利用するだけで、約束を守らない」という認識を強めました。

 1871年1月に入ると、パリの食料事情はさらに悪化しました。市民は飢えと寒さに苦しみ、国民衛兵の給与も十分ではありませんでした。戦争を続けることに対する期待は薄れましたが、同時に、プロイセンに屈服することへの反発も強まりました。

 1月19日、フランス軍はブーゼンヴァルの戦いで最後の大規模な出撃を行いました。しかし、攻撃は失敗に終わり、パリを包囲から解放する可能性は失われました。

パリ包囲戦中のブーゼンヴァルの戦い(1871年1月)。右手前には兵士たちの一団が描かれ、中央には別の兵士が立って遠方を指し示している。1871年頃 - Wikipedia

 1月22日、パリでは再び大規模な抗議運動が起きました。市民や国民衛兵の一部は、市庁舎前に集まり、国防政府の退陣とコミューンの樹立を要求しました。政府軍は群衆に発砲し、死者が出ました。この事件は、政府と急進派の対立をさらに深刻化させました。

Ⅳ.休戦と国防政府の終焉

 軍事的状況とパリの飢餓を考慮し、国防政府はプロイセンとの休戦交渉に入りました。ガンベタは戦争継続を主張しましたが、パリ内部の政府指導者たちは、これ以上の抵抗が無意味であると判断しました。

 1871年1月28日、パリの休戦協定が成立しました。これはフランスの事実上の敗北を意味しました。パリは武装解除され、国民衛兵は武器を保持することを許されましたが、正規軍は武装を解除されました。この点は、後に国防政府とパリ市民の対立を生む重要な要因となりました。

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが描いたこの絵画では、普仏戦争後の困窮からの復興に向けた希望の象徴としてオークの小枝を持った女性が描かれている。 ウォルターズ美術館蔵 - Wikipedia

 休戦条件に基づき、フランスでは国民議会を選出する選挙が行われることになりました。国民議会には、プロイセンとの正式な和平条約を締結し、フランスの新しい政治体制を決定する権限が与えられました。

 2月8日、国民議会選挙が実施されました。選挙は全国的に行われましたが、戦争と占領の影響により、地域によっては情報が十分に伝わっていませんでした。

 新議会では、王党派が多数を占めました。王党派には、正統王朝派、オルレアン派、保守的な議会主義者などが含まれていました。共和派も一定の勢力を持っていましたが、全国規模では少数派でした。

 この結果は、パリ市民に強い衝撃を与えました。パリは共和主義と急進的政治の中心であり、選挙でも共和派が優勢でした。しかし、農村部や地方都市の多くは、戦争の終結と秩序の回復を求めて保守派に投票しました。

 ここで重要なのは、選挙が必ずしも王政復古そのものを支持するものではなかったことです。多くの有権者にとって、最大の争点は、王政か共和政かという制度問題よりも、戦争を続けるか、和平を受け入れるかでした。和平を訴えた王党派・保守派が勝利した結果、議会の構成は王党派中心となりました。

 2月17日、国民議会はアドルフ・ティエールを「フランス共和国行政長官」に選出しました。ティエールは長年、ナポレオン三世の外交・軍事政策を批判してきた政治家でしたが、同時に秩序と中央集権を重視する保守的な共和主義者でもありました。

アドルフ・ティエール - Wikipedia

 国防政府は、ここに至って事実上の役割を終えました。新政府はボルドーを拠点とし、ティエールはビスマルクとの和平交渉を進めました。

 1871年2月26日、ヴェルサイユ仮条約が締結され、3月1日に国民議会がこれを承認しました。フランスはアルザスの大部分とロレーヌ地方の一部をプロイセンに割譲し、50億フランの賠償金を支払うことになりました。また、賠償金の支払いが完了するまで、プロイセン軍がフランス領内に駐留することになりました。

賠償金が支払われるまで占領されたフランスの領域 - Wikipedia

 1871年3月1日、プロイセン軍がパリで勝利行進を行いましたが、パリ市民の強い敵意にさらされました。国民衛兵中央委員会はこれに抗議し、パリの武器と大砲を守ろうとしました。

Ⅴ.パリとヴェルサイユの対立

 国民議会は3月10日、政府所在地をパリからヴェルサイユへ移すことを決定しました。これは、パリ市民から見ると、首都を見捨て、地方の保守派がパリを政治的に懲罰する行為のように受け取られました。

 パリ市民の不満には、複数の原因がありました。第一に、パリは長期の包囲戦を耐え抜いたにもかかわらず、政府が屈辱的な和平を受け入れたことでした。第二に、国民衛兵の多くが労働者であり、包囲中に武器を持って都市を守ったにもかかわらず、政府がその組織を解体しようとしたことでした。第三に、戦時中に停止されていた家賃や債務の支払いが再び要求されたことでした。第四に、パリの政治的伝統を無視して、政府がヴェルサイユへ移転したことでした。

 パリでは、国民衛兵の中央委員会が大きな影響力を持つようになりました。国民衛兵中央委員会は、軍事組織であると同時に、各地区の住民集会を背景にした政治組織でもありました。そこには、急進共和派、社会主義者、ブランキ派、プルードン主義者、ジャコバン派など、さまざまな思想の人々が参加していました。パリ市民が所有する大砲は、モンマルトルやベルヴィルなど、労働者の多い地域に置かれていました。これらの大砲は、包囲戦中に市民が資金を出し合って購入したものであり、パリ市民の財産だと考えられていました。

モンマルトルの大砲: Causes, Bloody Week & Legacy | HISTORY

 ティエール政府は、この大砲を回収して国民衛兵を武装解除しようとしました。政府軍がパリを完全に支配するためには、国民衛兵の武器を取り上げる必要があると判断したためでした。しかし、武装解除の実施は、パリ市民の強い反発を招きました。

Ⅵ.1871年3月18日、パリ・コミューンの始まり

 1871年3月18日の早朝、政府軍はモンマルトルなどに配置されていた大砲を接収するために動きました。作戦は秘密裏に行われましたが、兵士たちは大砲を運び出すための馬や装備を十分に持っていませんでした。

 大砲の周囲には、まず女性たちが集まりました。彼女たちは兵士と大砲の間に立ち、武器を運び出すことを阻止しました。やがて国民衛兵や住民も集まり、政府軍と市民の対峙が始まりました。

1871年3月18日にコミューン運動参加者の国民衛兵によって築かれたバリケード - Wikipedia

 政府軍の兵士たちは、群衆に発砲するよう命じられましたが、十分に従いませんでした。兵士の多くは、包囲戦をともに経験したパリ市民を撃つことを拒否しました。政府軍内部の規律は崩れ、兵士の一部は国民衛兵側に加わりました。

 この混乱の中で、政府側のルコント将軍とトマ将軍が拘束され、後に殺害されました。将軍たちの殺害は、パリ・コミューン側の正当性を損なう重大な事件となりました。ティエールは、政府機関と正規軍をパリから撤退させ、ヴェルサイユへ移りました。

 3月18日は、パリ・コミューンの始まりとされる日です。ただし、当初のパリ市民の目的は、必ずしもフランスから独立した革命国家を建設することではありませんでした。多くの人々は、パリの自治、共和政の防衛、国民衛兵の権利、中央政府による専制への抵抗を求めていました。

Ⅶ.コミューンの選挙と成立

 3月18日以後、パリでは国民衛兵中央委員会が暫定的に行政を担いました。しかし、中央委員会は自らが恒久的な政府になることを避け、パリ市民による選挙を実施する方針を採用しました。

 3月26日、パリでコミューン評議会の選挙が行われました。投票率は全市で一様ではなく、富裕層や保守派の一部は投票をボイコットしました。そのため、選挙結果はパリの全住民の意見を完全に反映したものではありませんでした。

 選出された評議員には、急進共和派、ジャコバン派、ブランキ派、社会主義者、プルードン主義者、国際労働者協会に近い人物などが含まれていました。彼らの間には、政治的目標や組織のあり方について大きな違いがありました。

 3月28日、パリ市庁舎でパリ・コミューンの成立が公式に宣言されました。群衆は赤旗を掲げ、革命歌を歌い、パリが自らを統治する時代の到来を祝いました。

コミューン成立の式典 - Wikipedia

 パリ・コミューンは、単一の思想によって統一された政権ではありませんでした。参加者の多くは、後世の意味での共産主義者ではありませんでした。コミューンという語も、当時のフランス語では第一義的に「自治体」や「市町村」を意味していました。

 コミューン内部には、少なくとも次のような政治潮流が存在しました。

・ジャコバン派:フランス革命の伝統に基づく強力な共和政と国家防衛を重視しました。

・ブランキ派:少数の革命的前衛が権力を掌握し、社会を変革することを構想しました。

・プルードン主義者:中央集権国家ではなく、自治的なコミューンの連合を理想としました。

・社会主義者:労働者の協同組合、経済的平等、生産手段の社会的管理を求めました。

・急進共和派:普通選挙、世俗国家、地方自治、市民の政治的自由を重視しました。

 この多様性は、コミューンの活力を生み出しましたが、軍事的危機に際して統一的な指揮を困難にしました。

Ⅷ.コミューンの構想

 コミューンは、政治権力を職業政治家や官僚から市民へ移すことを目指しました。評議員は選挙で選ばれ、住民によって罷免できるとされました。公務員も選挙によって選出され、給与は一般労働者の賃金を大きく上回らないことが理想とされました。

 コミューンの指導者たちは、中央集権的な国家を解体し、各都市や地域が自治的に政治を行う連邦的な共和政を構想しました。4月19日に発表された「フランス人民への宣言」は、パリだけでなく、全国のコミューンが自治権を持ち、相互に連合する政治体制を掲げました。

 ただし、当時のフランスでこの構想がどこまで現実的であったかについては、議論があります。パリ以外の都市で成立したリヨン、マルセイユ、トゥールーズなどの革命的コミューンは、いずれも短期間で政府軍に鎮圧されました。全国的な連携を構築する時間も、軍事力も、コミューンにはありませんでした。

1870年9月4日、リヨン市庁舎の占拠と共和国の宣言。これがリヨン・コミューンの出発点となった — Wikipédia

Ⅸ.ヴェルサイユ政府の反攻

 ティエール政府は、パリ・コミューンを一時的な反乱として放置するつもりはありませんでした。政府にとって、コミューンは単にパリの自治運動ではなく、フランス国家の統一と政府の権威を脅かす武装反乱でした。しかし、休戦直後のフランスには、パリを攻撃できる十分な正規軍がありませんでした。多数のフランス兵がプロイセン軍の捕虜となっており、フランス軍は再建途上でした。

 ティエールは、プロイセンのビスマルクと交渉し、捕虜となっていたフランス兵の一部を帰国させました。これらの兵士を中心に、ヴェルサイユ政府は軍隊を再編成しました。プロイセン軍は、フランス政府がパリ・コミューンを鎮圧することを、フランスの安定と賠償金支払いのために必要だと考えていました。政府軍とコミューン軍の最初の大規模な衝突は、4月2日にクールブヴォア付近で起きました。コミューン軍はパリ西方の地域へ進出しようとしましたが、政府軍に撃退されました。

クールブヴォアの戦い - Wikipedia

 4月3日、コミューン側はヴェルサイユに向けて大規模な攻撃を試みました。しかし、軍事的準備が不十分で、指揮も統一されていなかったため、攻撃は失敗しました。デュヴァル将軍らコミューン側の指揮官が捕らえられ、処刑されました。この敗北は、コミューンが攻勢によってヴェルサイユ政府を打倒する可能性を失ったことを意味しました。以後、戦争はパリを包囲する政府軍と、都市を防衛するコミューン軍との戦いになりました。

Ⅹ.コミューン内部の対立

 コミューンは、軍事的危機に直面する中で、指導体制を何度も変更しました。国民衛兵中央委員会、公安委員会、軍事代表、コミューン評議会の間で権限が重複し、責任の所在が不明確でした。

 軍事代表には、ギュスターヴ・クルーゼレ、ルイ・ロッセル、ルイ=シャルル・ドゥレクリューズらが就任しました。しかし、軍事指揮官の間には政治的対立があり、作戦の失敗をめぐって互いに責任を追及しました。

 ロッセルは軍事的な専門性と統一指揮の必要性を主張しましたが、コミューンの政治構造と衝突しました。彼は最終的に辞任し、コミューンの統治能力に失望を表明しました。

ルイ・ロッセル - Wikipedia

 4月下旬、コミューン内部の対立は決定的になりました。多数派は、革命的な非常措置を実行するため、強力な公安委員会の設置を支持しました。これに対して少数派は、選挙で選ばれたコミューン評議会の権限を守り、独裁的な非常機関に反対しました。

 5月15日、少数派宣言が発表され、コミューン内部の分裂が公然化しました。これは、政府軍の攻撃が強まっている時期に起きたため、コミューンの軍事・行政能力をさらに低下させました。

 コミューンは、自由と自治を守ることを理念としていましたが、危機が深まるにつれて検閲や逮捕、公安委員会による統制を強めました。こうして、民主的な自治政府としての理想と、革命的な非常政府としての現実との間に矛盾が生じました。

Ⅺ.宗教政策と人質問題

 コミューンの指導者の多くは、カトリック教会が帝政・王党派・保守的社会秩序と結びついていると考えていました。そのため、教会の政治的・教育的影響力を縮小しようとしました。

 4月2日、教会と国家の分離、宗教目的への公金支出の停止、教会財産の国有化が宣言されました。宗教教育に代わって、世俗的な教育を整備する方針も示されました。この政策は、フランス革命以来の反教権主義の伝統を受け継ぐものでした。しかし、パリのカトリック信者や保守派住民にとっては、信仰と社会秩序への攻撃と受け止められました。

 コミューンは、ヴェルサイユ政府による捕虜の処刑や弾圧に対抗するため、人質を取る政策を採用しました。聖職者や保守派の人物が拘束され、政府軍がコミューン側の捕虜を処刑した場合には、人質を報復的に処刑するという考え方が示されました。

 パリ大司教ジョルジュ・ダルボワは人質として拘束されました。コミューン側は、彼をブランキと交換することを提案しました。ブランキはコミューンの象徴的な指導者の一人でしたが、コミューン成立時には政府の刑務所に収監されていました。しかし、ティエール政府は交換を拒否しました。最終的に、血の週間の末期である5月24日、ダルボワ大司教と複数の人質がコミューン側によって処刑されました。この事件は、ヴェルサイユ軍の報復をさらに激しいものにしました。

ジョルジュ・ダルボワ - Wikipedia

Ⅻ.ヴァンドーム柱の破壊

 5月16日、コミューンはヴァンドーム広場にあったヴァンドーム柱を倒しました。これはナポレオン一世の軍事的勝利を記念するモニュメントであり、コミューンはこれを軍国主義と帝国主義の象徴とみなしました。

パリ・コミューン中に破壊された円柱のナポレオン1世の像とパリ・コミューン支持者(1871年) - Wikipedia

 柱の撤去を推進した人物の一人は画家ギュスターヴ・クールベでした。クールベは芸術家としてだけでなく、コミューンの文化政策にも関与しました。しかし、柱の破壊は、文化財の破壊と受け止められ、後の裁判で彼に責任が問われることになりました。

ギュスターヴ・クールベ - Wikipedia

 ヴァンドーム柱をめぐる問題は、コミューンが過去の帝国的記念碑を否定し、革命的な政治文化を形成しようとしたことを示しています。一方、ヴェルサイユ政府や保守派は、これをフランスの歴史と文明への攻撃と宣伝しました。

XIII.血の週間

 政府軍は、パリを包囲しながら西側の要塞を順次占領しました。特にイシー要塞をめぐる戦闘では、コミューン軍が激しく抵抗しましたが、5月上旬には政府軍が優位に立ちました。

 5月21日、政府軍はパリ西部のサン=クルー門から市内へ侵入しました。コミューン側は、政府軍が市内に入ったことを当初把握できませんでした。政府軍は各地区を占領し、コミューン軍は急いでバリケードを築きました。

ドゥエ将軍の軍勢は、守備が手薄になっていたポワン・デュ・ジュールの城壁を通ってパリ市内へ侵入した - Wikipedia

 5月22日から28日にかけて行われた戦闘は、一般に「血の週間」と呼ばれています。戦闘は、正規軍と国民衛兵の戦いであると同時に、住宅街や大通り、墓地、公共建築物を舞台とする都市内戦でした。

 コミューン軍は、パリ各地にバリケードを築きました。バリケードはフランス革命以来の都市蜂起の象徴であり、パリの民衆が街路を政治的・軍事的空間へと変える手段でした。

 しかし、1871年の政府軍は、過去の革命期の軍隊とは異なっていました。政府軍は砲兵と組織的な歩兵部隊を持ち、各地区を順番に制圧しました。コミューン軍は勇敢に抵抗しましたが、指揮系統が分裂し、弾薬も不足していました。

 5月24日、コミューンは市庁舎を放棄しました。市庁舎はコミューンの政治的中心であり、その焼失は政権の崩壊を象徴しました。コミューン側は、チュイルリー宮殿、法務省、財務省など複数の建物に放火しました。

1871年5月23-25日のパリ大火災 カルナヴァレ博物館蔵 - Wikipedia

 これらの火災には、軍事的に建物を使用不能にする目的、敵に公共財産を渡さない目的、革命的象徴を破壊する目的などがありました。放火の実行者には、指導者だけでなく、各地区の戦闘員や活動家も含まれていました。後世に語られた「石油女」の物語は、女性を一括して放火犯とする政治的な中傷を含んでおり、実際の関与の規模については慎重な検討が必要です。

 5月27日、コミューン軍の最後の主要拠点の一つは、ペール=ラシェーズ墓地となりました。墓地内では激しい戦闘が行われ、最後の抵抗者たちは「連盟兵の壁」の前で処刑されました。

ペール=ラシェーズ墓地の戦い - Wikipedia

 5月28日、ベルヴィルやメニルモンタン周辺の最後のバリケードが陥落しました。これにより、パリ・コミューンは終わりました。コミューンは約72日間、パリを統治したことになります。

XIV.反乱後の弾圧

 コミューンの敗北後、ヴェルサイユ軍は大規模な報復を行いました。戦闘中に捕らえられた国民衛兵や市民の多くが、正式な裁判を受けることなく処刑されました。

 犠牲者数については、研究者や資料によって幅があります。数万人が戦闘、即決処刑、拘束中の死などによって命を失ったと考えられています。特に血の週間だけで2万人から3万人程度が死亡したとする推計がありますが、正確な数については議論が続いています。

 処刑は、ペール=ラシェーズ墓地、リュクサンブール公園、兵営、刑務所など、パリ各地で行われました。連盟兵の壁は、後にコミューン犠牲者の追悼場所となりました。

ペール・ラシェーズ墓地の「連盟兵の壁」 - Wikipedia

 一方、コミューン側も血の週間の末期に人質や捕虜を殺害しました。大司教や聖職者、政府側の官僚らの処刑は、ヴェルサイユ政府による弾圧の正当化に利用されました。双方が暴力を行いましたが、最終的な軍事力と国家機構を掌握していたのはヴェルサイユ政府でした。そのため、死者の大多数はコミューン側の戦闘員とパリ市民でした。鎮圧後、数万人が逮捕されました。軍事裁判では、反乱、武器の所持、軍事施設への攻撃、放火、人質殺害などが審理されました。

 多数の人々が有罪判決を受け、死刑、禁固、流刑、国外追放などの刑罰を受けました。ニューカレドニアへの流刑も行われ、約4,000人の政治犯が送られました。パリ・コミューンを代表する女性革命家・教育者・アナキストで、コミューン側で積極的に活動したことから後世に「コミューンの英雄」「赤い聖母(Vierge rouge)」などと呼ばれたルイーズ・ミシェルも、ニューカレドニアへ流刑となりました(1880年11月9日に帰国)。

ニューカレドニアの首都、ヌメアのルイーズ・ミシェル - Wikipedia

 流刑地では、コミューン派の人々が政治的ネットワークを維持しました。ミシェルは現地の先住民カナク人に同情を寄せ、フランス植民地支配への批判的姿勢を示しました。彼女の活動は、コミューンの歴史がフランス本土だけでなく、植民地支配の歴史とも結びついていることを示しています。

XV.第三共和政への影響

 パリ・コミューンの鎮圧後、第三共和政は消滅しませんでした。むしろ、王党派が多数を占めた国民議会の下で、共和政は徐々に制度化されていきました。

 しかし、初期の第三共和政は、コミューンの記憶に強く影響されました。保守派や中道派にとって、パリ・コミューンは社会革命、無神論、財産破壊、国家分裂の象徴でした。政府は、労働運動や急進共和主義を長く警戒しました。

 一方、共和派は、王政復古を阻止しながら、秩序ある議会共和政を構築しようとしました。1875年の憲法的諸法によって、第三共和政の制度的枠組みが整えられました。最終的に、王党派の分裂と社会の共和化が進み、共和政はフランスの恒久的な政治制度として定着しました。

 コミューン参加者に対する一般恩赦は、長く政治問題となりました。共和派左派や労働運動は、追放・投獄された人々の帰国を求めました。1880年には、コミューン関係者に対する大赦が実現し、多くの亡命者や流刑者がフランスへ戻りました。

 コミューンの記憶は、政治勢力によって異なる形で利用されました。

 保守派にとっては、コミューンは秩序の崩壊と国家への反逆でした。社会主義者や革命家にとっては、労働者が都市を自ら統治した最初の歴史的経験でした。共和派の一部にとっては、王党派や軍事独裁に対抗する市民共和主義の記憶でした。

 カール・マルクスは、1871年に『フランスにおける内乱』を執筆し、パリ・コミューンを労働者階級による政治権力の経験として評価しました。マルクスは、コミューンが官僚的・軍事的国家機構を破壊し、選挙された代表による新しい政治形態を示したと論じました。ただし、コミューンを単純にマルクス主義の革命とみなすことには注意が必要です。参加者の多くは、マルクス主義者ではありませんでした。ジャコバン主義、プルードン主義、ブランキ主義、急進共和主義などが共存しており、思想的にはきわめて多様でした。

カール・マルクス - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数(1871年発行、パリミント、ラージA)は、PCGSでは44枚あり、Top PopはMS66となります。NGCは区分が不明のためよく分かりませんでした(Top PopはMS64?)。このコインは1870年~1895年の間の11年間(歯抜けあり)発行され、最も発行枚数が少ないのは1878年発行、パリミントのプルーフ30枚と思われます。これらのハイグレードのコインはかなり希少であると思われます。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙

コイン探求の旅 #230 『フランス帝国(第二帝政) 5フラン銀貨 ナポレオン3世』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス帝国(第二帝政) 5フラン銀貨 ナポレオン3世』です。

発行国  フランス帝国(第二帝政)
材質  シルバー
品位  0.900
発行年  1868年
発行枚数  11,390,447
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF~XF相当
サイズ

 このコインは、表面には中央に月桂冠を被ったナポレオン3世の肖像が描かれ、その周囲にフランス語で「ナポレオン3世 皇帝」、右下に「BB(ストラスブールミントを示す)」、下に「バレ(エングレイバーのデジレ=アルベール・バレのこと)」と刻まれています。裏面には中央に皇帝の紋章である雷霆(雷の束)をつかむ鷲、レジオン・ドヌール勲章の頸飾、帝冠、王笏を配した帝国紋章が描かれ、外周上部にフランス語で「フランス帝国」、外周株に額面の「5フラン」と西暦の発行年「1868」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、デジレ=アルベール・バレが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=52

 このコインは、フランス帝国(第二帝政)の皇帝ナポレオン3世の治世において発行されたコインです。ナポレオン3世の在位期間は1852年12月2日~1870年9月4日のおよそ18年間でした。今回は、ナポレオン3世について解説します。

ナポレオン3世 - Wikipedia

 フランス共和国(第二共和政)については、#229で解説しましたので、そちらを参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

Ⅰ.生誕とボナパルト家の亡命

 ナポレオン3世は1808年4月20日、フランスのパリで生まれました。本名はシャルル=ルイ・ナポレオン・ボナパルトといいます。父はナポレオン1世の弟であり、ナポレオンによってオランダ王に任じられたルイ・ボナパルト、母はナポレオン1世の最初の妻ジョゼフィーヌの娘であるオルタンス・ド・ボアルネでした。したがってルイ=ナポレオンは、父方からボナパルト家、母方からボアルネ家につながる人物でした。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 ナポレオン1世は1804年に皇帝となり、フランス第一帝政を築きました。ルイ=ナポレオンが生まれたころ、ボナパルト家はヨーロッパの各地に王や公として配置され、フランス帝国の影響力は大きく広がっていました。しかし、この繁栄は長く続きませんでした。1812年のロシア遠征失敗以後、ナポレオン1世は連合国軍に敗れ、1814年に退位します。さらに1815年の百日天下とワーテルローの戦いでの敗北を経て、ナポレオン1世はセントヘレナ島へ送られました。

 この結果、ボナパルト家の人々はフランスから追放され、ルイ=ナポレオンも幼少期から亡命生活を送ることになりました。彼は主にスイスで育ち、アーレンベルク城を拠点としました。フランスの皇帝一族でありながら、祖国を離れて生活したことは、彼の政治的な人格形成に大きな影響を与えました。彼は少年時代から、ナポレオン1世の栄光、フランス国家の偉大さ、帝政崩壊の屈辱を身近な記憶として受け継ぎました。

 母オルタンスは、息子にナポレオン家の名声と使命を強く意識させた人物でした。彼女はナポレオン1世の義理の娘として宮廷で暮らした経験を持ち、帝政の伝統を守ろうとしていました。ルイ=ナポレオンは、単に亡命貴族として育ったのではなく、「いつかボナパルト家がフランスで役割を果たす」という意識の中で成長しました。

オルタンス・ド・ボアルネ - Wikipedia

Ⅱ.青年期とイタリア民族運動への関心

 ルイ=ナポレオンはスイスで教育を受け、軍事学、歴史、語学、政治思想に触れました。彼はフランス語だけでなく、ドイツ語、イタリア語、英語などにも親しみ、ヨーロッパ各地の社会と政治を観察しました。王位継承者として整えられた教育ではなく、亡命者としての不安定な環境で育ったため、彼の青年期には実践的で国際的な性格がありました。

 青年時代のルイ=ナポレオンは、イタリアの民族運動とも接点を持ちました。1820年代から1830年代にかけて、イタリアではオーストリア支配や地方君主の統治に反対し、統一と自由を求める運動が広がっていました。彼は弟ナポレオン=ルイとともに、カルボナリと呼ばれる秘密結社系の運動に関わり、イタリアの自由主義者・民族主義者に共感を示しました。

カルボナリの紋章と三色旗 - Wikipedia

 1831年には、中部イタリアで反乱が起こりました。ルイ=ナポレオン兄弟もこの運動に関係し、ボローニャやロマーニャ地方の情勢にかかわりました。しかし運動はオーストリア軍の介入によって鎮圧されました。この過程で弟ナポレオン=ルイが病死し、ルイ=ナポレオンは危険な状況から逃れなければなりませんでした。

 この経験は、彼にとって重要でした。のちに皇帝となったナポレオン3世が1859年にサルデーニャ王国を援助してオーストリアと戦い、イタリア統一の進展を助けた背景には、青年期に抱いたイタリア民族運動への共感がありました。ただし彼の対外政策は理想だけで動いたものではなく、フランスの国際的威信や自らの政権の安定とも深く結びついていました。

Ⅲ.ボナパルト派の形成とストラスブール事件

 1830年にフランスで七月革命が起こり、シャルル10世が退位し、オルレアン家のルイ・フィリップが国王となると、フランスでは新しい立憲君主制である七月王政が始まりました。ボナパルト家に対する追放措置には徐々に緩みが見られ、ナポレオン1世の記憶も再び政治的意味を持つようになりました。

 ルイ=ナポレオンは、ナポレオン1世の名を利用すれば、軍人、農民、旧帝政の支持者、国家の威信を求める人々を結びつけられると考えました。彼はボナパルト派の思想をまとめた文書を書き、帝政は単なる独裁ではなく、革命の原理と国家の秩序を両立させる制度であると主張しました。

 1836年10月、彼はフランス東部のストラスブールで軍事蜂起を企てました。これは、駐屯軍を味方につけ、ナポレオン家の名のもとに政権を転覆させようとする計画でした。しかし、兵士たちはほとんど支持せず、計画は短時間で失敗しました。

1836年、ストラスブールでクーデターを企てるも失敗に終わったルイ・ナポレオン - Wikipedia

 七月王政政府は、ルイ=ナポレオンを処刑したり長期間収監したりするのではなく、アメリカへ追放しました。彼を処刑すればナポレオンの名声を高める危険があり、また王族に近い人物として扱いにも政治的配慮が必要だったためです。ルイ=ナポレオンはアメリカへ渡りましたが、母オルタンスの病状悪化を知ると、まもなくヨーロッパへ戻りました。1837年に母が亡くなると、彼はその後イギリスに拠点を置きました。

 ストラスブール事件は失敗でしたが、ルイ=ナポレオンにとっては、フランスで自分の名が知られる契機となりました。彼は失敗を単なる挫折として終わらせず、ボナパルト家の継承者としての印象を広める材料に変えていきました。

Ⅳ.ブローニュ事件とアム要塞での投獄

 1840年、ルイ=ナポレオンは二度目の蜂起を企てました。この年、七月王政政府はナポレオン1世の遺骸をセントヘレナ島からフランスへ迎え、パリのアンヴァリッドへ改葬しました。これは「遺灰の帰還」と呼ばれる出来事であり、ナポレオンの記憶がフランス社会で大きく再評価される契機でした。

 ルイ=ナポレオンはこの機会を利用し、1840年8月、イギリスから北フランスの港町ブローニュへ上陸しました。彼は軍服を着た支持者や象徴的な鷲を伴い、駐屯軍を味方につけてパリへ進むことを企てました。しかし、この計画も軍の支持を得られず、すぐに失敗しました。

1840年8月4日のブローニュ一揆 - Wikipedia

 今度の政府は、彼を国外追放するのではなく、終身刑としてアム要塞に収監しました。ルイ=ナポレオンは1840年から1846年までの約6年間を牢獄で過ごしました。これは政治家としては不利な時期にも見えますが、彼は獄中で多くの文章を書き、自らの思想を整理しました。

 彼は『貧困の絶滅』などで、労働者の生活改善、信用制度の改革、公共事業、農業振興、国家による経済発展の支援を論じました。彼の思想にはサン=シモン主義の影響が見られました。サン=シモン主義は、産業、科学、銀行、交通、公共事業を通じて社会を進歩させるべきだと考える思想でした。ルイ=ナポレオンは、社会主義革命によって所有権を破壊するのではなく、国家が経済を発展させ、雇用と信用を広げることで貧困を減らす道を模索しました。

アム要塞で服役するルイ・ナポレオン - Wikipedia

 1846年、彼はアム要塞から脱走しました。労働者の服装に身を包み、「バダンゲ」という名で通ったと伝えられています。彼はベルギーを経由してイギリスへ逃れました。この脱走は彼の冒険的な人物像を強めるとともに、七月王政への反対者としての知名度をさらに高めました。

Ⅴ.1848年革命と第二共和政への帰国

 1848年2月、パリで二月革命が起こり、ルイ・フィリップ1世が退位すると、七月王政は崩壊しました。フランスでは第二共和政が宣言されました。ルイ=ナポレオンはただちに帰国を試みましたが、臨時政府は当初、彼の帰国が国内政治を不安定にすると懸念し、国外にとどまるよう求めました。

 しかし、男性普通選挙が導入されると、政治状況は大きく変化しました。ルイ=ナポレオンの名は、とりわけ地方農村部で強い影響力を持っていました。農民たちはナポレオン1世の時代を、革命後の土地所有を守り、国家秩序を確立し、フランスの威信を高めた時代として記憶していました。実際の第一帝政は重い徴兵と戦争を伴ったものでしたが、1848年の農民層にはナポレオン神話が強く残っていました。

 ルイ=ナポレオンは補欠選挙で当選し、1848年9月には制憲議会の議員となりました。彼は共和政を尊重する姿勢を示しながら、社会主義的な急進化への不安を抱く農民、商工業者、保守層、カトリック層に支持を広げました。

1848年、国民議会の議員を務めるルイ・ナポレオン - Wikipedia

 1848年6月には国立作業場閉鎖をきっかけに六月蜂起が起こり、カヴェニャック将軍が労働者を武力で鎮圧しました。この流血は、都市労働者の社会改革要求に対する恐怖を地方と有産層に広げました。多くの人々は、革命の継続よりも秩序の回復を望むようになりました。ルイ=ナポレオンは、この秩序への期待と、ナポレオン家の名が持つ人気を結びつけることに成功しました。

Ⅵ.1848年大統領選挙

 1848年11月、第二共和政憲法が制定されました。この憲法は、男性普通選挙によって直接選ばれる大統領を置き、任期を4年、連続再選を禁止する制度を採用しました。12月10日に大統領選挙が行われると、ルイ=ナポレオンは主要候補として立候補しました。

 彼の対抗候補には、六月蜂起を鎮圧したカヴェニャック将軍、社会主義的な立場のルドリュ=ロラン、穏健共和派のラマルティーヌなどがいました。ルイ=ナポレオンは、各勢力に異なる期待を抱かせることができました。農民には土地所有の保護と秩序、カトリック層には宗教と家庭の尊重、商工業者には安定と経済発展、労働者の一部には雇用・貧困対策への関心、軍人にはナポレオンの名が象徴する名誉を訴えました。

1848年のフランス大統領選挙の様子を描いた絵。ナポレオンのポスターを持った子供とカヴェニャック将軍のポスターを持った子供が喧嘩をしている - Wikipedia

 選挙の結果、ルイ=ナポレオンは約540万票を獲得して圧勝しました。カヴェニャックの得票は約140万票にとどまりました。この結果は、ナポレオンという名がいかに強い政治的資源だったかを示していました。同時に、1848年のフランス社会が、急進的な革命ではなく、秩序、安定、国家的威信を求めていたことも示していました。

 1848年12月20日、ルイ=ナポレオンは第二共和政の大統領に就任しました。彼はフランスで初めて、男性普通選挙によって全国規模で選出された大統領でした。この立場は、議会の支持だけではなく、直接に国民の支持を受けたという強い正統性を彼に与えました。

Ⅶ.大統領時代と秩序党との協力

 大統領就任直後のルイ=ナポレオンは、議会の多数を占める保守派・王党派の「秩序党」と協力しました。彼自身はボナパルト家の人物であり、王党派とは本来異なる立場でしたが、社会主義運動や急進共和主義を抑えるという点では利害が一致していました。

 1849年、フランスはローマへ軍隊を派遣しました。イタリアでは革命の波の中でローマ共和国が成立し、教皇ピウス9世がローマを脱出していました。フランス政府はカトリック層への配慮とヨーロッパ外交上の利益から、教皇の世俗支配を回復するために出兵しました。フランス軍はローマ共和国を打倒し、教皇の復帰を可能にしました。

1849年のフランス軍のローマ侵攻を描いた絵 - Wikipedia

 このローマ出兵は、青年期にイタリアの自由主義運動に共感していたルイ=ナポレオンにとって、矛盾を含む政策でした。彼はイタリア統一や民族的自立への理解を持っていましたが、大統領としては国内のカトリック支持を確保し、保守派との協調を維持する必要がありました。政治的立場の変化は、彼が思想よりも権力維持と政治的均衡を優先する現実主義者であったことを示しています。

 1850年にはファルー法が制定され、教育におけるカトリック教会の役割が拡大しました。また同年の選挙法改正では、一定期間の定住要件が導入され、移動の多い都市労働者を中心に多くの男性が選挙権を失いました。これは1848年革命の重要な成果であった男性普通選挙を実質的に狭めるものでした。

 ルイ=ナポレオンは当初これらの保守的政策に協力しましたが、やがて議会の秩序党に対抗する立場へ移っていきました。彼は、議会の王党派が自分を利用して最終的にブルボン家またはオルレアン家の王政を復活させるのではないかと警戒しました。また、1852年に大統領任期が切れる以上、再選禁止を定めた憲法を変えなければ、自らの政治的地位を失うことになります。

Ⅷ.再選問題と1851年12月2日のクーデター

 第二共和政憲法は、大統領の連続再選を禁じていました。ルイ=ナポレオンは憲法改正によって再選可能にしようとしましたが、議会は必要な多数を与えませんでした。王党派や保守派の一部は、彼が権力を集中させて帝政を復活させることを恐れていました。

 ルイ=ナポレオンは地方遊説を行い、農民、地方の有力者、軍人、カトリック層に直接語りかけました。彼は自分が「国民に選ばれた大統領」であり、議会が国民の意思を妨げているという構図をつくり出しました。また、1850年の選挙法によって選挙権を失った人々に対して、普通選挙を回復する姿勢を示しました。

 1851年12月2日、ルイ=ナポレオンはクーデターを実行しました。この日付は、ナポレオン1世の1804年の皇帝即位と、1805年のアウステルリッツの勝利を意識したものでした。彼は軍と警察を動かし、立法議会を解散し、共和派や王党派の有力政治家を逮捕しました。

ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリの様子を描いた絵 - Wikipedia

 パリではバリケードが築かれ、共和主義者を中心とする抵抗が起こりました。一部の地方でも反乱が発生しましたが、軍隊によって厳しく鎮圧されました。クーデタ直後には、パリの大通りで軍が市民に発砲する事件が起こり、多くの犠牲者が出ました。政府は反対派を逮捕・追放し、出版物や政治活動への統制を強めました。

 しかしルイ=ナポレオンは、軍事力だけに依存したのではありません。クーデタ後に国民投票を実施し、自らの行動に民意の承認を与えようとしました。国民投票では圧倒的多数の賛成が示されたとされます。自由な政治的議論が制限された状況での投票だったため、その結果を単純に民意とみなすことはできませんが、農村部を中心に、秩序の回復と強い指導者を求める支持が存在したことも確かです。

 1852年1月、新憲法が制定され、大統領に強い権限が集中する体制が整えられました。立法機関は残されましたが、政府の統制下に置かれ、自由な議会政治は大きく制限されました。第二共和政は形式上継続していましたが、実態は大統領個人の権力を中心とした統治へ移行していました。

Ⅸ.第二帝政の成立

 1852年11月、ルイ=ナポレオンは再び国民投票を行い、帝政の復活について承認を求めました。賛成多数という結果を受けて、1852年12月2日、彼はナポレオン3世として皇帝に即位しました。ここにフランス第二帝政が成立しました。

 彼が「ナポレオン2世」ではなく「ナポレオン3世」を名乗ったのは、ナポレオン1世の息子ナポレオン2世、すなわちライヒシュタット公を正統な先代として数えたためです。ナポレオン2世は実際にフランスを統治したわけではありませんが、ボナパルト家の継承の正統性を示すうえで重要な存在でした。

1852年に撮影されたルイ・ナポレオンの肖像写真 - Wikipedia

 第二帝政初期の政治体制は、一般に「権威帝政」と呼ばれます。皇帝は行政、立法、外交、軍事に大きな影響力を持ち、大臣は議会より皇帝に責任を負いました。立法府は存在しましたが、法律の提案権は原則として政府側にあり、議会での討論や報道も制限されました。知事や警察、官僚機構を通じて地方選挙にも強い影響が及びました。

 一方で、ナポレオン3世は自らの統治を、単なる世襲的専制とは位置づけませんでした。彼は国民投票、男性普通選挙、国民の直接的支持を重視し、「皇帝と国民の直接的結びつき」を正統性の基盤としました。この政治手法はボナパルティズムと呼ばれます。すなわち、議会や政党を介するよりも、強力な指導者が国民投票を通じて国民の意思を体現するという考え方です。

Ⅹ.経済近代化と産業政策

 ナポレオン3世の統治は、政治的には抑圧的な性格を持ちましたが、経済面ではフランスの近代化を大きく進めました。彼はアム要塞での投獄中から、公共事業、信用制度、銀行、交通網、農業振興によって社会の繁栄を広げる構想を持っていました。皇帝となった後、その構想を国家政策として実施しました。

 第二帝政期には、鉄道網の建設が急速に進みました。パリを中心として各地方都市を結ぶ鉄道路線が整備され、人と物資の移動が大きく変化しました。鉄道は国内市場を統合し、石炭、鉄、繊維、機械、農産物の流通を促進しました。また、地方の農民や商人が都市市場と結びつくことで、フランス経済の全国的統合が進みました。

1858年、トゥールーズ・マタビオ駅の線路開通の様子 - Wikipedia

 金融制度の整備も重要でした。クレディ・モビリエのような投資銀行が設立され、鉄道、鉱業、不動産、都市開発などの大規模事業に資金を供給しました。株式会社や銀行の役割が増し、従来の家族経営的な商業資本だけでは難しかった大規模投資が可能になりました。

「クレディ・モビリエ」の旧本店。パリのヴァンドーム広場にあり、1898年以降はホテル・リッツとなっている - Wikipedia

 農業についても、ナポレオン3世は農村を自らの重要な支持基盤と考えていました。農業信用、農業技術の普及、地方交通の改善、灌漑や排水などの整備が進められました。フランスは依然として農村人口の多い国であり、皇帝は都市工業の発展だけでなく、農民の土地所有と生活安定を意識していました。

 ただし、急速な投資と信用拡大には投機的な側面もありました。経済発展の利益は地域や階層によって差があり、都市労働者の生活が常に安定したわけではありません。とはいえ、第二帝政は、フランスが近代的な産業資本主義社会へ移行する過程を大きく加速した時代だったと評価できます。

Ⅺ.パリ改造とオスマンの都市計画

 ナポレオン3世の内政で最も目に見える成果は、パリ改造です。1853年、彼はセーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンを任命し、パリの大規模な都市再開発を始めました。中世以来の狭く曲がりくねった街路が多く残るパリを、近代的な首都へ改造することが目的でした。

ジョルジュ・オスマン - Wikipedia

 オスマンのもとで、幅の広い直線道路、大通り、広場、公園、鉄道駅周辺の整備が進められました。上下水道、ガス灯、公共建築、市場、病院、学校なども整備され、パリは衛生・交通・景観の面で大きく変化しました。ブローニュの森やヴァンセンヌの森などの大規模公園も、都市住民のための空間として整備されました。

 この改造には複数の目的がありました。第一に、人口増加と都市化によって悪化していた衛生問題を改善することでした。第二に、交通と商業を発展させ、首都を経済活動の中心として強化することでした。第三に、フランスの威信を示す壮麗な首都をつくることでした。

 同時に、政治的・軍事的な意味もありました。1848年やそれ以前の革命では、狭い路地がバリケード戦に有利でした。幅広い道路は軍隊の移動を容易にし、蜂起側が街を封鎖することを難しくしました。そのためパリ改造は、都市衛生と近代化の事業であると同時に、革命の再発を抑える統治技術でもありました。

パリ改造計画で新設もしくは拡張された道路(赤い部分) - Wikipedia

 再開発は多くの建物の取り壊しを伴い、低所得者層が中心部から移転を余儀なくされる面もありました。新しい大通り沿いには裕福な層向けの建物や商店が増え、パリの社会的地理も変化しました。それでも、第二帝政期の都市改造は、今日のパリの景観の基盤をつくった事業として大きな歴史的意義を持っています。

Ⅻ.クリミア戦争とフランスの国際的復帰

 ナポレオン3世は国内の発展だけでなく、外交的成功によって第二帝政の威信を高めようとしました。ナポレオン1世の敗北後、フランスはウィーン体制のもとでヨーロッパ外交の中心から一定程度外されていました。ナポレオン3世は、フランスを再び列強外交の中心へ復帰させることを目指しました。

 最初の大きな成功がクリミア戦争でした。1853年、ロシア帝国とオスマン帝国の対立が深まり、ロシアの南下と東地中海への進出を警戒するイギリス・フランスがオスマン帝国側に立って参戦しました。フランス軍はイギリス軍、サルデーニャ王国軍などと協力してロシアと戦いました。

クリミア戦争(1854年) - Wikipedia

 戦争はクリミア半島を主戦場とし、セヴァストポリ包囲戦など激しい戦闘が続きました。1856年、パリ条約が結ばれて戦争は終結しました。ロシアは黒海における軍事的活動を制限され、フランスは講和会議の開催地となりました。この結果、ナポレオン3世はフランスをヨーロッパ外交の中心に戻すことに成功し、第二帝政の威信は大きく高まりました。

講和会議に出席している各国の全権(エドゥアール・デュビュフ作、ヴェルサイユ宮殿蔵) - Wikipedia

 クリミア戦争は、フランスがイギリスと協力してロシアの影響力を抑えた戦争として重要でした。また、ウィーン体制以来の保守的な国際秩序が動揺し、イタリア・ドイツの統一問題が前面に出る条件をつくりました。ナポレオン3世にとっては、フランスの国際的地位を回復する成功でしたが、以後の外交では、より複雑で危険な問題に深く関与することになります。

XIII.イタリア統一戦争とその限界

 ナポレオン3世は青年期にイタリアの民族運動と接点を持っていたため、イタリア統一問題に深い関心を持っていました。1858年、イタリアの民族主義者フェリーチェ・オルシーニがナポレオン3世の暗殺を企てる事件が起こりました。爆弾テロ自体は失敗しましたが、オルシーニは獄中から皇帝に対し、イタリアの独立と統一を支援するよう訴えました。

フェリーチェ・オルシーニ - Wikipedia

 1858年7月、ナポレオン3世はサルデーニャ王国首相カミッロ・カヴールと、フランスのプロンビエールで秘密会談を行いました。両者は、オーストリアを北イタリアから追い出すために協力することを約束しました。その見返りとして、サルデーニャ王国はフランスへサヴォイアとニースを譲渡することになりました。

1843年時点のイタリア - Wikipedia

 1859年、フランスとサルデーニャ王国はオーストリアと戦いました。ナポレオン3世は自ら軍を率い、マジェンタの戦いとソルフェリーノの戦いで勝利を得ました。とくにソルフェリーノの戦いは非常に多くの死傷者を出し、戦場の惨状を見たアンリ・デュナンが後に赤十字創設へ向かう契機となったことでも知られます。

ソルフェリーノの戦いのナポレオン3世、ジャン=ルイ=エルネスト・メソニエ作、油絵、1863年 - Wikipedia

 しかし、ナポレオン3世は戦争を最後まで拡大しませんでした。1859年7月、彼はオーストリアとヴィッラフランカで休戦し、ロンバルディアはサルデーニャ王国に渡りますが、ヴェネツィアはなおオーストリア領に残りました。彼が急に講和した背景には、戦争の犠牲の大きさ、フランス国内のカトリック層が教皇領の将来を懸念したこと、プロイセンがライン方面で動員を始めたことなどがありました。

 この政策は、イタリア統一を完全に実現するものではありませんでしたが、統一の大きな前進を助けました。一方、カトリック層からは教皇領を脅かしたとして批判され、イタリア民族主義者からは統一を途中で止めたとして不満を持たれました。ナポレオン3世は、民族自決への共感、フランスの国益、カトリック支持、列強均衡という相反する要素を同時に満たそうとして、完全には成功できませんでした。

XIV.植民地拡大とアジアへの進出

 第二帝政期には、フランスの植民地活動も拡大しました。アルジェリアでは、1830年に始まったフランスの軍事占領と植民地支配が第二帝政下でさらに進められました。現地住民に対する軍事的圧力と土地収奪を伴う植民地支配は、フランスの海外拡張の重要な一部でした。

 アジアでは、フランスは中国とベトナム方面へ進出しました。1858年以後、フランスはスペインとともにベトナムへ軍事介入し、南部のコーチシナを支配下に置きました。1862年のサイゴン条約などを通じて、フランスは東南アジアにおける植民地拠点を確保しました。

コーチシナ(黄色) - Wikipedia

 また、第二次アヘン戦争ではイギリスと協力して清朝に圧力をかけ、天津条約や北京条約の成立に関与しました。1860年には英仏連合軍が北京へ進軍し、円明園が略奪・焼却される事件が起こりました。これらの対外進出は、フランスの商業的利益、宣教師保護、海軍力の拡大、列強間の競争と結びついていました。

アロー戦争、英仏軍の円明園の略奪 - Wikipedia

 ナポレオン3世の対外政策は、ヨーロッパにおける国際的威信の回復だけでなく、世界規模でのフランスの影響力拡大を目指すものでした。しかし、植民地拡大には多大な軍事費と人命の犠牲が伴い、現地社会にとっては主権の侵害と支配の始まりを意味しました。

XV.メキシコ出兵とその失敗

 ナポレオン3世の外交で最も大きな失敗となったのが、メキシコ出兵でした。1861年、メキシコ政府が対外債務の支払いを停止すると、フランス、イギリス、スペインは債権回収を理由に共同でメキシコへ軍を派遣しました。しかしイギリスとスペインは交渉後に撤兵し、フランスだけが軍事介入を継続しました。

 ナポレオン3世には、アメリカ大陸にフランスの影響圏を築き、ラテン系・カトリック系の帝国を支援するという構想がありました。当時、アメリカ合衆国は南北戦争の最中であり、モンロー主義にもとづいて介入する余力が限られていました。ナポレオン3世はこの機会を利用し、メキシコに親フランス政権をつくろうとしました。

 フランス軍は当初、メキシコ軍の抵抗に遭いました。1862年5月5日のプエブラの戦いでは、メキシコ軍がフランス軍を破りました。この勝利は現在でもメキシコで「シンコ・デ・マヨ」として記憶されています。その後、フランスは増援を送り、1863年にメキシコシティを占領しました。

プエブラの会戦 - Wikipedia

 ナポレオン3世は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟であるハプスブルク家のマクシミリアンを、メキシコ皇帝として迎えました。1864年、マクシミリアンはメキシコへ渡り、第二メキシコ帝国が成立しました。しかし、この政権はフランス軍の支援なしには維持できず、メキシコ共和国の大統領ベニート・フアレスとその支持者は抵抗を続けました。

ベニート・フアレス - Wikipedia

 1865年にアメリカ南北戦争が終結すると、アメリカ合衆国はフランスに対して撤兵を求めました。プロイセンの台頭などヨーロッパ情勢も緊張するなかで、ナポレオン3世はメキシコに大軍を維持し続けることが困難になりました。1866年からフランス軍は撤退を始め、1867年にはマクシミリアンがメキシコ共和国軍に捕らえられて処刑されました。

マクシミリアンらの処刑の様子を撮影した写真。右からマクシミリアン、ミゲル・ミラモン、トマス・メヒア - Wikipedia

 メキシコ出兵は、フランスに多額の費用と国際的な威信の損失をもたらしました。ナポレオン3世がマクシミリアンを十分に保護できないまま撤兵したことは、国内外で強く批判されました。この失敗は、第二帝政の無敵という印象を壊し、皇帝の判断力に対する信頼を弱める重要な転機となりました。

XVI.1860年代の自由化と社会政策

 1860年代に入ると、ナポレオン3世は統治のあり方を徐々に変えていきました。初期の第二帝政は、選挙統制、新聞検閲、反対派弾圧を特徴とする権威帝政でした。しかし、経済発展によって都市の中産階級が成長し、自由主義者や共和主義者が議会内外で影響力を増すと、皇帝は従来の統制だけでは体制を維持できないと判断しました。

 1860年には、立法院が政府の政策について討議する権利をより広く認められました。1861年には議会で予算審議が公開され、1867年には議会の質問権が強化されました。1869年の選挙では反対派が大きく議席を増やし、帝政は議会の意向を無視できなくなりました。

 労働者に対する政策でも変化がありました。1864年、労働者のストライキ権が一定の条件下で認められました。これは労働者の団結や争議を全面的に容認するものではありませんでしたが、労働運動に対する刑事的抑圧を緩和する重要な改革でした。1860年代後半には労働者の組織化も徐々に進みました。

 ナポレオン3世は、国家が労働者と資本家の対立を調整し、経済発展の成果を社会全体に広げるべきだという考えを持っていました。これはアム要塞時代に書いた社会政策論ともつながっていました。ただし、彼の改革は上から与えられたものであり、労働者自身の政治参加や自治を全面的に認めるものではありませんでした。

 1860年にはイギリスとの自由貿易条約(コブデン=シュヴァリエ条約)が結ばれました。これはフランス産業を国際競争にさらす政策であり、一部の製造業者や保護主義者の反発を招きました。しかし、ナポレオン3世は貿易拡大と産業競争力の向上を通じて経済を発展させようとしました。こうした改革と自由化の時代は、一般に「自由帝政」と呼ばれます。

コブデン=シュヴァリエ条約をめぐる1860年2月の議会討論で、庶民院(下院)に向けて演説するパーマストン卿。ジョン・フィリップ作(1863年) - Wikipedia

XVII.皇后ウジェニーと皇太子の誕生

 1853年、ナポレオン3世はスペイン系貴族のウジェニー・ド・モンティジョと結婚しました。皇后ウジェニーは美貌と社交性で知られ、第二帝政の宮廷文化を象徴する存在となりました。彼女は単なる儀礼的存在ではなく、政治、とりわけカトリック問題、イタリア問題、メキシコ問題などにも一定の影響を持ちました。

ウジェニー・ド・モンティジョ - Wikipedia

 1856年には皇太子ナポレオン=ウジェーヌ=ルイ・ボナパルト、通称「帝国皇太子」が誕生しました。これはボナパルト王朝の継承を安定させる出来事として大いに歓迎されました。第二帝政は国民投票による正統性を基礎としながらも、皇太子の誕生によって王朝的継続性を得ようとしました。

8歳のルイ・ナポレオン(1864年) - Wikipedia

 皇后ウジェニーは、カトリック信仰を重視し、教皇領を守るべきだと考えました。そのため、イタリア統一を支援しつつ教皇の支配を維持しようとするナポレオン3世の外交では、皇后と皇帝の周辺が複雑な影響を与えました。また、メキシコ出兵に関しても、カトリック帝国の建設という構想に皇后が好意的だったとされます。

XVIII.普仏戦争への道

 1860年代後半、ヨーロッパの勢力均衡は大きく変化しました。最大の要因は、プロイセン王国の首相オットー・フォン・ビスマルクの登場でした。ビスマルクはプロイセン軍の改革を進め、ドイツ諸邦をプロイセンの主導で統合する政策を展開しました。

オットー・フォン・ビスマルクの肖像画。署名入り。1894年(18)94年と記載。キャンバス/板に油彩 - Wikipedia

 1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利すると、オーストリアはドイツ問題から排除され、北ドイツ連邦が成立しました。フランスでは、プロイセンが急速に強大化することへの警戒が強まりました。ナポレオン3世は普墺戦争で中立を保ち、戦後に領土的補償を得ようと考えていましたが、ビスマルクはフランスに十分な見返りを与えませんでした。

北ドイツ連邦(赤)と、南部諸邦(黄) - Wikipedia

 フランス国内では、「プロイセンの拡大を許した」という批判が高まりました。ナポレオン3世は健康を害し、体制はメキシコ出兵失敗後の動揺から完全には立ち直っていませんでした。こうした中で外交上の強硬姿勢が求められ、フランスはプロイセンとの対立を深めました。

 直接のきっかけは、1870年のスペイン王位継承問題でした。スペインでは女王イサベル2世の退位後、王位候補としてプロイセン王家ホーエンツォレルン家のレオポルトが浮上しました。フランスは、東のプロイセンと南西のスペインを同じ王家につながる勢力に挟まれることを恐れ、候補辞退を要求しました。

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン - Wikipedia

 レオポルトは辞退しましたが、フランス政府はプロイセン王ヴィルヘルム1世に対し、今後も同家のスペイン王位候補を支持しないという保証を求めました。ビスマルクは、エムスでの国王とフランス大使の会見報告を短く編集して公表しました。いわゆるエムス電報です。この文章は双方の国民感情を刺激し、フランスではプロイセンがフランス大使を侮辱したという印象を与えました。

エムス電報 - Wikipedia

 1870年7月19日、フランスはプロイセンに宣戦布告しました。ナポレオン3世にとって、この戦争は低下した威信を回復し、フランスの安全を守るための戦いと考えられました。しかし、軍事準備、指揮系統、動員、外交のすべてにおいて、フランスはプロイセンおよび南ドイツ諸邦に対して不利な状況にありました。

XIX.普仏戦争とセダンでの捕虜

 戦争が始まると、フランス軍の弱点はすぐに明らかになりました。プロイセン軍とドイツ諸邦軍は、鉄道を利用した迅速な動員、参謀本部による計画的な作戦、優れた砲兵力を備えていました。フランス軍にはシャスポー銃など優れた装備もありましたが、全体的な戦略と補給、統率で不利でした。

シャスポー銃を持ったフランス兵: 普仏戦争当時 - Wikipedia

 ナポレオン3世は健康状態が悪く、腎臓・膀胱の病に苦しんでいたとされます。それにもかかわらず、皇帝として前線に赴き、軍の指揮にかかわろうとしました。しかし実際には軍事指導者として十分に状況を統制できず、各軍団の連携も乱れました。

 開戦後、フランス軍はアルザス、ロレーヌ方面でドイツ軍と交戦しましたが、相次いで敗北しました。8月には、フランス軍の一部がメス要塞周辺に追い込まれました。バゼーヌ元帥が指揮する部隊は大規模な兵力を有していましたが、積極的な反攻に失敗し、最終的にはメスで包囲されました。

メス攻囲戦及びセダンの戦いの関連地(左)、フランス軍によるメスの防衛(画)アルフォンス・ド・ヌヴィル(右) - Wikipedia

 もう一つのフランス軍は、皇帝ナポレオン三世とマクマオン元帥に率いられ、メスを救援するため北東へ移動しました。しかし、ドイツ軍はこの軍を包囲し、1870年9月1日、セダンの戦いが起きました。フランス軍は決定的に敗北し、マクマオンは負傷し、ナポレオン三世はドイツ軍に降伏しました。

フランスのレイユ将軍がナポレオン3世の降伏の意思をヴィルヘルム1世に伝える場面を描いた壁画。1884年にカール・シュテフェックによって描かれ、ベルリンの博物館(旧王宮)に保管されていたが、第二次世界大戦での爆撃により失われた- Wikipedia

 セダン敗北の知らせがパリに届くと、1870年9月4日、パリでは共和主義者が蜂起し、立法院で第二帝政の廃止と第三共和政の成立が宣言されました。皇后ウジェニーはパリを脱出し、イギリスへ亡命しました。ナポレオン3世はなお生きていましたが、その帝政は事実上終わりました。

 その後フランスでは国防政府が成立し、戦争はしばらく継続します。プロイセン軍はパリを包囲し、1871年1月にはドイツ帝国がヴェルサイユ宮殿で成立します。これはフランスにとって大きな屈辱であり、ナポレオン3世の外交と軍事政策への批判を決定づける出来事となりました。

XX.亡命、死去、帝国の終焉

 捕虜となったナポレオン3世は、ドイツで拘束された後、1871年に解放されました。彼はイギリスへ渡り、妻ウジェニーと皇太子のいる地へ向かいました。かつて1840年代に亡命者として暮らしたイギリスは、彼にとって再び避難所となりました。

1872年のナポレオン3世一家 - Wikipedia

 彼はロンドン近郊のチズルハーストにあるカムデン・プレイスで暮らしました。亡命後もボナパルト派の支持者は存在し、帝政復活の可能性を完全に捨てたわけではありませんでした。しかし、フランスでは第三共和政が定着へ向かい、ナポレオン3世が再び権力を得る見込みは次第に薄れていきました。ナポレオン3世は健康を長く害しており、1873年1月9日、手術後の合併症により死去しました。享年64歳でした。

『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』に掲載されたナポレオン3世臨終のイラスト - Wikipedia

  彼の死後、帝国皇太子がボナパルト派の希望となりましたが、1879年、皇太子はイギリス軍に同行した南アフリカでズールー戦争中に戦死しました。これにより、ナポレオン3世が築いた王朝の再興は事実上きわめて困難になりました。

ナポレオン3世の遺児ルイの最期を描いた絵画 - Wikipedia

 ナポレオン3世、皇后ウジェニー、帝国皇太子の遺骸は、現在イギリスのファーンバラにある聖ミカエル修道院に安置されています。彼がフランス皇帝として統治した期間は18年に及びましたが、その生涯は、幼少期の亡命、二度の蜂起失敗、共和国大統領への当選、クーデタ、皇帝即位、戦争での捕虜、そして再び亡命という、きわめて劇的な軌跡をたどりました。

最後のボナパルト皇帝の眠る場所――フランスではなく、英国屈指の『知られざる絶景』を望むハンプシャーの地 | Country Life

 

 このコインの鑑定枚数(1868年発行、ストラスブールミント)は、PCGSでは51枚あり、Top PopはMS64となります。NGCは区分が不明のためよく分かりませんでした(Top PopはMS64?)。このコインは1861年~1870年の10年間発行され、最も発行枚数が少ないのは1862年発行でミントマーク無しであると思われます(発行枚数は不明)。1861年発行の試作貨も少数存在するようです。これらのハイグレードのコインはかなり希少であると思われます。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙

コイン探求の旅 #229 『フランス共和国(第二共和政) 20サンチーム銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス共和国(第二共和政) 20サンチーム銀貨』です。

発行国  フランス共和国(第二共和政)
材質  シルバー
品位  0.900
発行年  1850年
発行枚数  6,173,221
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF~XF相当
サイズ

 このコインは、表面には中央に穀物の女神セレス(豊穣や農業の象徴であり、第二共和政期には共和政そのものを表す寓意像)が描かれ、その周囲にフランス語で「フランス共和国」、下に「E.A.ウディネ.F.(ウジェーヌ=アンドレ・ウディネのこと)」と刻まれています。裏面には外周左側に月桂樹の枝、外周右側にオリーブの枝が描かれ、2本の枝の外側にフランス語で「自由・平等・友愛」、中央に額面の「20サンチーム」と西暦の発行年「1850」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、ウジェーヌ=アンドレ・ウディネが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=59

 このコインは、フランス共和国の第二共和政において発行されたコインです。今回は、第二共和政について解説します。

フランス第二共和政 - Wikipedia

 ルイ・フィリップ1世については、#228で解説しましたので、そちらを参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

Ⅰ.七月王政末期の社会と政治

 第二共和政が成立する直接の背景には、ルイ・フィリップ1世の七月王政が抱えていた政治的・社会的な矛盾がありました。七月王政は1830年の七月革命によって成立し、立憲君主制と議会政治を掲げていました。しかし、実際に政治へ参加できる人々は、一定以上の直接税を納める富裕な男性に限られていました。農民、都市の職人、工場労働者、貧しい市民の大多数には選挙権がなく、国家の意思決定に直接かかわる道が閉ざされていました。

 1840年代のフランスでは産業化が進み、鉄道建設、鉱工業、銀行、商業が発展しました。一方で、経済成長の利益は社会のすべての層に均等に行き渡ったわけではありませんでした。都市に集まった労働者は、低賃金、長時間労働、失業、住環境の悪化に悩まされました。さらに1846年から1847年にかけて不作と経済不況が重なり、食料価格の上昇、企業倒産、失業の拡大が起こりました。生活苦は、政治改革への要求と結びついていきました。

 当時、政府の中心人物だったフランソワ・ギゾーは、選挙権拡大の要求を受け入れませんでした。ギゾーは、財産を持ち教育を受けた人々が政治を担うべきだと考え、政治参加を求める者には、まず財産を築いて納税資格を得るよう求める姿勢を示しました。この考え方は有産者中心の議会政治を守るものだった一方、経済的に苦しい人々や、新たに政治参加を望む中間層の不満を強めました。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー - Wikipedia

 政府に批判的な自由主義者や改革派は、集会の規制を避けるため、政治的な「改革宴会」を各地で開きました。宴会の形式をとりながら、彼らは選挙法の改正、選挙権の拡大、政府の腐敗の是正を要求しました。1848年2月22日、パリで予定されていた大規模な改革宴会が政府によって禁止されると、長く蓄積していた不満が一気に噴き出します。これが二月革命の直接の引き金となりました。

Ⅱ.二月革命と共和政の宣言

 1848年2月22日以後、パリでは学生、労働者、職人、市民が街頭に集まり、政府の政策に抗議しました。当初の要求は選挙法改革を中心とするものでしたが、政府が武力で対応し、軍隊と市民の衝突が起こると、運動は急速に広がりました。2月23日、政府は一度ギゾー内閣を辞任させました。しかし、その夜、軍隊の発砲で多数の死傷者が出ると、状況は決定的に悪化しました。

 パリ市民は犠牲者の遺体を街中に運び、政府の暴力を告発しました。各地でバリケードが築かれ、国民衛兵の一部も国王政府に積極的に協力しなくなりました。2月24日、群衆はテュイルリー宮殿へ迫り、ルイ・フィリップ1世は退位を余儀なくされました。国王は孫のパリ伯へ王位を譲ろうとしましたが、この試みは成功しませんでした。

 国王退位後、パリでは共和主義者、自由主義者、労働者代表らによる臨時政府が組織されました。2月24日から25日にかけて、フランス第二共和政の成立が宣言されました。こうして、1792年から1804年に存在した第一共和政に続き、フランスは再び共和政の時代に入りました。

 臨時政府には、詩人・政治家のアルフォンス・ド・ラマルティーヌ、新聞人のアルマン・マラス、社会主義者ルイ・ブラン、労働者代表アルベールなど、多様な立場の人物が参加していました。この顔ぶれは、二月革命が単純に一つの階層や思想による革命ではなく、選挙法改正を求める自由主義者、共和政を求める政治家、生活改善を求める労働者、社会改革を望む社会主義者が、一時的に協力した運動であったことを示しています。

1848年臨時政府の閣僚たち — Wikipédia

Ⅲ.男性普通選挙と社会改革

 第二共和政の臨時政府は、成立直後から重要な改革を打ち出しました。最も画期的だったのは、1848年3月に男性普通選挙を採用したことでした。七月王政の下では、選挙権を持つ男性は約20万人台に限られていました。しかし第二共和政は、一定年齢以上のフランス人男性に選挙権を広げ、有権者を約900万人規模へ増加させました。

 これはフランス政治史における大きな転換でした。財産の多寡ではなく、成年男性であることを基本に選挙権を認める制度は、政治共同体の範囲を大きく拡張しました。もっとも、この制度は女性には選挙権を認めておらず、今日の意味で完全な普通選挙ではありませんでした。それでも、農村の小農民、都市の労働者、地方の職人など、多数の人々が初めて国政選挙に参加することになりました。

 臨時政府はまた、奴隷制の廃止を決定しました。フランス植民地では、1848年4月に奴隷制が正式に廃止されました。この改革には、植民地相となったヴィクトル・シュルシェールが大きな役割を果たしました。これは第二共和政の重要な人道的改革であり、フランス本国だけでなく、カリブ海などの植民地社会にも重大な影響を与えました。

ヴィクトル・シュルシェール - Wikipedia

 さらに政府は、政治犯の釈放、報道・集会に対する規制の緩和、死刑の一部廃止、労働時間の一定の制限などを進めました。パリでは労働時間を一日10時間、地方では11時間とする措置が掲げられました。現代の労働基準から見れば十分に長い時間ですが、国家が労働時間に関与し、労働者の生活条件を政治問題として扱ったことには大きな意味がありました。

 同時に、臨時政府は「労働の権利」を認める方向を打ち出しました。これは、単に市場に任せるのではなく、失業した人々に働く機会を保障する責任を国家が負うべきだという考え方でした。この理念は、社会主義者ルイ・ブランや労働者代表の強い要求を背景としていました。しかし、理念を制度として実現することは、容易ではありませんでした。

Ⅳ.国立作業場の設置

 失業問題に対応するため、第二共和政政府は1848年2月末から3月にかけて、国立作業場を設置しました。フランス語ではアトリエ・ナシオノーと呼ばれます。これは、失業した労働者を公共事業などに雇い入れ、賃金を支給する救済事業でした。

シャン・ド・マルスにおける国立作業場(セザール・ブトンによる版画) — Wikipédia

 国立作業場は、社会主義者ルイ・ブランが構想した「社会作業場」と完全に同じものではありませんでした。ルイ・ブランは、労働者が協同して生産を担う恒久的な組織を構想していました。これに対して国立作業場は、政府が失業者を一時的に収容し、土木工事などに配置する救済策として運営されました。そのため、労働者の自主管理や生産組織の改革を目指す制度ではありませんでした。

 それでも国立作業場には、多数の失業者が登録しました。パリとその周辺では、経済不況のために仕事を失った職人や労働者が増えており、政府の救済に期待が集まったからです。しかし、登録者が急増すると、政府の財政負担は急速に大きくなりました。また、実際に必要な工事よりも登録者数の方が多く、十分な仕事を与えられない人々も少なくありませんでした。

 地方の農民や保守的な有産層の中には、国立作業場を「パリの失業者だけを税金で養う制度」と見る者もいました。彼らは、革命による混乱、税負担、都市労働者の急進的な要求に不安を抱いていました。こうして、二月革命直後には協力していた自由主義的市民層と労働者・社会主義者の間で、社会政策をめぐる対立が徐々に深まっていきました。

Ⅴ.1848年4月の選挙と政治的対立

 1848年4月23日、男性普通選挙にもとづく制憲議会選挙が実施されました。これはフランス史上初めての大規模な男性普通選挙でした。有権者の多くは農村に住む農民でした。パリの急進的な政治運動とは距離がある人々も多く、選挙の結果、穏健な共和派、自由主義者、保守派が大きな勢力を占めました。

 パリの労働者や社会主義者は、この選挙結果に失望しました。彼らは二月革命によって、政治制度の変更だけでなく、失業や貧困を解決する社会改革が進むことを期待していました。しかし制憲議会の多数派は、急進的な社会改革よりも、財政の安定、治安の回復、所有権の保障を優先しました。

 5月15日には、ポーランド独立支援の要求を掲げる大規模なデモがパリで行われ、急進派の一部が議会に押し入る事件が起こりました。政府はこれを秩序への脅威と見なし、ルイ・ブランやアルベールら急進派・社会主義派の影響力を抑えました。この事件を通じて、議会多数派はパリの急進派を警戒し、パリの労働者もまた政府が革命の約束を放棄しつつあると感じるようになりました。

 こうして第二共和政は成立後数か月で、自由主義的な市民層、農民、保守派、共和主義者、社会主義者、都市労働者という多様な集団の利害を調整できない状態に陥りました。問題は単に政党間の対立ではなく、「共和国は誰のために存在するのか」「国家は失業と貧困にどこまで責任を負うのか」という根本的な問いにかかわっていました。

Ⅵ.六月蜂起と共和政の転換

 1848年6月、第二共和政の性格を決定的に変える事件が起こりました。政府は財政負担と治安上の不安を理由に、国立作業場の閉鎖を決定しました。6月21日、国立作業場に登録していた労働者に対し、地方の土木事業へ移るか、若者は軍隊に入るかという方針が示されました。

 労働者たちはこれを、政府が二月革命後に掲げた労働保障の約束を撤回する行為と受け止めました。6月23日、パリ東部を中心に労働者がバリケードを築き、政府軍と衝突しました。これが六月蜂起です。蜂起は数日間にわたる激しい市街戦となり、パリの労働者街は戦場となりました。

スフロ通りのバリケード描画(背後にパンテオン)、1848年6月パリ。オラース・ヴェルネー画 - Wikipedia

 制憲議会は、将軍ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャックに鎮圧の全権を委ねました。カヴェニャックは戒厳令を敷き、正規軍、国民衛兵、地方から集められた部隊を動員して蜂起を鎮圧しました。6月26日までに反乱はほぼ終結しましたが、死傷者は非常に多く、逮捕者も多数にのぼりました。逮捕された人々の一部は裁判を経ずにアルジェリアへ送られました。

フランソワ=ガブリエル・レポールによるカヴェニャックの肖像画、1848年 - Wikipedia

 六月蜂起は、二月革命で一時的に協力していた都市の労働者と、自由主義的・穏健共和派の市民層との決裂を象徴しています。政府側は蜂起を共和国への脅威、所有権と社会秩序に対する反乱と見ました。一方、労働者側にとっては、共和国が「自由・平等・友愛」を掲げながら、失業者を救済せず、軍事力で労働者を排除した出来事でした。

 六月蜂起の鎮圧後、第二共和政は明らかに秩序と財産権を優先する方向へ転換しました。社会主義者や急進派は弾圧され、社会改革への期待は後退しました。カヴェニャックは秩序を回復した人物として名声を得ましたが、共和国は誕生からわずか数か月で、労働者層の支持を大きく失うことになりました。

Ⅶ.1848年憲法と大統領制

 六月蜂起後、制憲議会は新しい憲法の制定を急ぎました。1848年11月4日、第二共和政憲法が公布されました。この憲法は、男性普通選挙を維持し、基本的自由を認める一方、社会の混乱を防ぐために強い行政権を置く制度でした。

1848年憲法 - Wikipedia

 立法権は一院制の立法議会に与えられ、行政権は大統領が担うことになりました。大統領は成年男性による直接選挙で選ばれ、任期は4年、連続再選は禁止されました。これは国民が直接選んだ強力な大統領と、国民が選んだ議会とを並立させる仕組みでした。

 この制度には重大な問題がありました。大統領と議会の双方が男性普通選挙による正統性を持つため、両者が対立した場合に、どちらが最終的に国民の意思を代表するのかが不明確でした。また、大統領には再選できないという制限がありましたが、人気のある大統領が任期終了を前に権力を維持しようとすれば、憲法と個人の野心の衝突が起こる可能性がありました。この制度上の緊張は、のちにルイ=ナポレオンによるクーデタへつながっていきます。

Ⅷ.ルイ=ナポレオンの大統領当選

 1848年12月10日、大統領選挙が行われました。主要候補には、六月蜂起を鎮圧したカヴェニャック将軍、急進的な社会主義者ルドリュ=ロラン、そしてナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオン・ボナパルトがいました。

 ルイ=ナポレオンは、それまで政治家として目立った実績を持つ人物ではありませんでした。かつてボナパルト派の蜂起を企てて失敗し、国外で生活した経験を持っていました。しかし「ナポレオン」という姓は、フランスの多くの人々にとって依然として強い力を持っていました。農民にとっては、ナポレオン時代の秩序と行政の安定、土地所有の保護、国民的栄光の記憶を呼び起こす名でした。保守派にとっては、社会主義革命を防ぎうる秩序の候補でした。労働者や貧しい人々の一部にとっても、既成の政治家とは異なる「人民の味方」になるかもしれない人物として期待されました。

1848年のルイ・ナポレオン - Wikipedia

 ルイ=ナポレオンは圧倒的な得票で当選し、1848年12月20日に大統領へ就任しました。彼は男性普通選挙によって選ばれた最初のフランス大統領であり、その広範な支持は、第二共和政の政治を大きく変えました。

 この選挙結果は、農民、保守派、カトリック層、ボナパルト派、秩序を求める市民層が、必ずしも同じ理由ではなくとも、ルイ=ナポレオンを支持したことを示しています。彼は「共和国の大統領」でありながら、同時にナポレオン帝政の記憶を背負う人物でした。この二重性が、彼の政治的な強さとなりました。

Ⅸ.保守化する共和政

 1849年5月、立法議会選挙が行われると、王党派や保守派を含む「秩序党」が大きな勢力を得ました。共和主義者や社会主義者は勢力を後退させ、第二共和政はさらに保守的な方向へ進みました。

 1849年6月、フランス軍のローマ派遣をめぐって共和派・社会主義派が抗議行動を起こすと、政府はこれを厳しく弾圧しました。フランス軍は1850年にローマ共和国を打倒し、教皇ピウス9世の世俗権力を回復させることになりました。この政策は、カトリック層の支持を得る一方、ヨーロッパの自由主義・民族運動に共感する共和主義者を失望させました。

フェルディナンド・ブッチ『コルヌーダの戦い』 - Wikipedia

 1850年にはファルー法が制定され、教育におけるカトリック教会の役割が拡大しました。また同年、選挙法が改正され、一定期間同じ地域に居住していることを選挙権の条件とする規定が導入されました。この制度は移動の多い都市労働者に不利で、男性普通選挙の範囲を実質的に狭めるものでした。多くの有権者が選挙人名簿から除外され、二月革命の大きな成果だった政治参加の拡大は後退しました。

 こうして第二共和政は、共和政の制度を保ちながらも、革命直後に掲げた社会改革や政治参加拡大の理念から離れていきました。ルイ=ナポレオンは当初、秩序党と協力していましたが、次第に自らの支持基盤を広げ、議会から独立した政治的地位を築こうとしました。

Ⅹ.大統領と議会の対立

 ルイ=ナポレオンの任期は、1852年に終わる予定でした。そして1848年憲法は、大統領の連続再選を認めていませんでした。彼とその支持者は、再選禁止を改めるため憲法改正を求めました。ところが議会では、王党派や保守派の一部が大統領の権力拡大を警戒し、改憲に必要な多数を得ることができませんでした。

 大統領は地方を巡回し、農民、軍人、カトリック層、地方の有力者に直接訴えかけました。彼は普通選挙を守る立場を強調し、1850年の選挙法改正によって投票権を失った人々にも支持を広げようとしました。一方で議会は、秩序を守るために大統領の権限を制限しようとしました。

 この対立は、単なる憲法上の争いではありませんでした。大統領側は「国民が直接選んだ大統領」として国民の意思を代表すると主張し、議会側は「法律と立法機関こそが共和国を守る」と主張しました。両者は同じ憲法のもとで正統性を主張しており、妥協が難しくなっていきました。

Ⅺ.1851年12月2日のクーデター

 1851年12月2日、ルイ=ナポレオンは軍と警察を用いてクーデターを実行しました。この日は、ナポレオン1世の1804年の皇帝即位と、1805年のアウステルリッツの戦いの勝利を連想させる日付であり、彼がナポレオンの遺産を意識していたことを示しています。

ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリの様子を描いた絵 - Wikipedia

 クーデタでは、立法議会が解散され、反対派の政治家が逮捕され、パリには軍隊が配置されました。ルイ=ナポレオンは男性普通選挙の復活を掲げ、国民投票によって自らの行動に正統性を与えようとしました。パリや一部の地方では共和主義者の抵抗や蜂起が起こりましたが、軍と警察によって厳しく鎮圧されました。

 クーデタ後、国民投票が実施され、ルイ=ナポレオンは大きな賛成多数を得たとされます。農村部を中心に、政治的混乱の終結、選挙権の復活、強力な指導者への期待から彼を支持する人々が多くいました。しかし、この手続きは軍事力と警察力によって議会を排除した後に行われたものであり、自由な共和政の制度がすでに大きく損なわれていました。

 1852年1月14日、新憲法が公布されました。これは1848年憲法に代わるもので、大統領に強い権限を集中させました。立法機関は残されましたが、その自律性は大幅に制限されました。第二共和政は形式上なお存続していましたが、その政治的内容は大統領権力を中心とする権威主義的な体制へ変わっていました。

Ⅻ.第二帝政への移行

 1852年11月、再び国民投票が行われ、ルイ=ナポレオンが皇帝となることが承認されました。12月2日、彼はナポレオン3世として皇帝に即位し、第二帝政が成立しました。こうして第二共和政は、1848年2月の革命から1852年12月の帝政成立まで、約4年に満たない短い期間で終わりました。

1852年12月2日、サン=クルー城からパリへ入ったナポレオン3世 - Wikipedia

 しかし、この時代には普通選挙と政治的代表、労働者の生活と社会政策、農民の政治的影響力、教会と教育、議会と大統領の関係、国民投票と権威主義、共和国と帝政の関係といったフランス近代史の主要な課題が凝縮された期間となりました。

 

 このコインの鑑定枚数(1850年発行、パリミント、シャルル=ルイ・ディエリックス(パリ造幣局長)のマーク)は、PCGS、NGCともに区分毎の枚数が不明でした。PCGS、NGCともにTop PopはMS66またはMS65であると思われます。このコインは1849年~1851年の3年間発行され、最も発行枚数が少ないのは1849年発行、パリミント、シャルル=ルイ・ディエリックス(パリ造幣局長)の4,871枚であるようです。他の発行年と比べると非常に少ないため、ハイグレードのコインはかなり希少であると思われます。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙

コイン探求の旅 #228 『フランス王国 5フラン銀貨 ルイ・フィリップ1世』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス王国 5フラン銀貨 ルイ・フィリップ1世』です。

発行国  フランス王国
材質  シルバー
品位  0.900
発行年  1845年
発行枚数 11,128,840
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF~XF相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にルイ・フィリップ1世の肖像が描かれ、その周囲にラテン語で「フランス人の王 ルイ・フィリップ1世」、下に「ドマール.F.(エングレイバーのジョゼフ=フランソワ・ドマールのこと)」と刻まれています。裏面には外周左側に月桂樹の枝、外周右側にオリーブの枝が描かれ、中央に額面の「5フラン」と西暦の発行年「1845」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、ジョゼフ=フランソワ・ドマールが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=51

 このコインは、フランス王国の国王ルイ・フィリップ1世の治世において発行されたコインです。ルイ・フィリップ1世の在位期間は1830年8月9日~1848年2月24日のおよそ18年間でした。今回は、ルイ・フィリップ1世について解説します。

ルイ・フィリップ (フランス王) - Wikipedia

 シャルル10世については、#227で解説しましたので、そちらを参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

Ⅰ.出生とオルレアン家

 ルイ・フィリップは1773年10月6日、パリの王族居館であるパレ・ロワイヤルに生まれました。本名はルイ=フィリップ・ジョゼフ・ドルレアンです。父はオルレアン公ルイ=フィリップ・ジョゼフ、母はルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボンでした。彼はフランス王家ブルボン家の分家であるオルレアン家に属しており、王家の血を引く王子でありながら、ルイ16世の直系とは異なる立場にありました。

 オルレアン家は王家の一族として大きな財産と高い社会的地位を持っていましたが、本家である国王家とは微妙な距離を保っていました。とりわけルイ・フィリップの父は、のちに「フィリップ・エガリテ」と名乗ることになる人物で、革命前から宮廷の特権や国王周辺の政治に批判的な態度を示していました。若いルイ・フィリップは、王族としての教育を受ける一方、父の周辺に集まった自由主義的な貴族、知識人、改革派の空気にも接して育ちました。

ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公) - Wikipedia

 彼の教育には、当時としては比較的進歩的な側面がありました。啓蒙思想の影響を受けた教育方針のもとで、古典、外国語、地理、歴史、自然科学などを学びました。こうした経験は、彼が後年、自らを革命以前の王族とは異なる「市民に近い王」として演出する基礎になりました。

 青年期のルイ・フィリップは、王位継承の直接の候補ではありませんでした。ルイ16世には王子が生まれる可能性があり、さらに王弟や王族も存在していたため、オルレアン家の若い王子がフランス王になるという展望は、当時ほとんど現実的ではありませんでした。しかし、フランス革命は王家の運命を根本から変え、彼を最終的に王位へ導くことになります。

Ⅱ.フランス革命と革命軍への参加

 1789年にフランス革命が始まると、ルイ・フィリップは父とともに革命初期の変化を支持しました。父オルレアン公は、旧来の特権的身分秩序に批判的であり、革命派に近い行動をとりました。革命が進むなかで、彼は「フィリップ・エガリテ」、すなわち「平等のフィリップ」と名乗るようになりました。この改名自体が、王族・貴族としての特権と距離を置き、革命の理念に近づこうとする政治的意思表示でした。

 ルイ・フィリップ自身も革命軍に加わり、軍人として活動しました。1792年には北部戦線でフランス軍に属し、オーストリア軍などとの戦闘に参加しました。とくに同年11月のジュマップの戦いでは、シャルル・フランソワ・デュムーリエ将軍の指揮下で戦い、革命軍の勝利を経験しました。王族の出身者でありながら革命軍の将校を務めたという経歴は、後年の彼の政治的な独自性を示す重要な要素です。

『ジュマップの戦い』アンリ・シェフェール作、1834年 - Wikipedia

 この時期、ルイ・フィリップは革命の理念に一定の共感を示していました。ただし、彼は急進的な革命家ではありませんでした。王権や社会の秩序を完全に破壊することよりも、立憲的な制度によって政治を改革する方向に理解を示した人物でした。したがって、王政の廃止、国王ルイ16世の処刑、恐怖政治の進行には、必ずしも積極的に賛同していたわけではありませんでした。

 1793年、革命軍のデュムーリエ将軍がオーストリア側へ逃亡すると、ルイ・フィリップも彼との関係を疑われ、フランスにとどまることが危険になりました。彼は国外へ脱出し、長い亡命生活に入りました。この時期、父フィリップ・エガリテはフランスに残っていましたが、革命政府から危険人物と見なされ、1793年11月にギロチンで処刑されました。ルイ・フィリップにとって父の処刑は、革命が王家だけでなく、革命に協力した王族をも容赦なく飲み込むことを示す痛烈な経験でした。

Ⅲ.亡命生活と世界各地での経験

 1793年以後、ルイ・フィリップは約20年以上にわたってフランスを離れて暮らしました。この亡命生活は、ブルボン本家の王族が送った亡命とはやや性格が異なりました。ルイ18世やシャルル10世が、王政復古と旧来の王権回復を中心に考えたのに対し、ルイ・フィリップはより実務的で、各地の社会や政治制度を観察する経験を積みました。

 最初の亡命先はスイスでした。彼は身分を隠し、教師として働いたこともありました。フランスの王族でありながら、生活のために教育に携わったという経験は、後年に彼が「市民王」と呼ばれる際の人物像に利用されます。スイスでは山岳地帯を旅し、比較的簡素な生活を経験しました。

 その後、彼はスカンディナヴィアを経て、1796年にはアメリカ合衆国へ渡りました。アメリカでは弟たちとともに旅行し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストンなどを訪れたほか、内陸部にも足を運びました。アメリカ社会における共和政、地方自治、商業活動、比較的平等な市民生活は、彼に大きな印象を与えたと考えられます。

 ただし、ルイ・フィリップが共和主義者になったわけではありません。彼が亡命中に学んだのは、君主制であっても社会の変化を無視しては統治できないこと、王家が生き残るには市民層の支持を得なければならないことでした。彼は後年、王権を伝統や神授説だけに頼って正当化するのではなく、国民との関係によって支えようとしますが、その背景にはこの亡命経験がありました。

 1800年ごろからはイギリスに移り、長期にわたって滞在します。イギリスでは立憲君主制と議会政治が安定的に機能している様子を観察しました。国王が存在しながらも、議会、有産階級、内閣が政治に大きな役割を果たすイギリスの制度は、後の七月王政にとって重要な参照例になりました。

Ⅳ.王政復古期の帰国と政治的基盤

 1814年、ナポレオンが退位してブルボン家の王政復古が始まると、ルイ・フィリップもフランスへ戻ることができました。ルイ18世はオルレアン家の地位と財産の一部を回復させ、ルイ・フィリップは再びオルレアン公となりました。彼はパレ・ロワイヤルを拠点とし、王政復古期のパリにおいて有力な王族・大地主・政治的名士として存在感を強めました。

 しかし、ルイ・フィリップはルイ18世やシャルル10世のブルボン本家とは政治的な性格が異なっていました。彼は立憲憲章を支持し、議会の役割を重視する自由主義者たちとの関係を築いていきました。革命期に父がとった行動や、自身の革命軍経験、海外亡命の記憶は、彼を本家の王族よりも「変化したフランス社会に理解のある王族」と見せる材料になりました。

 1824年にルイ18世が死去し、シャルル10世が即位すると、両者の違いはより明確になりました。シャルル10世は、貴族と教会の権威を高め、国王の主導権を強く打ち出す政治を行いました。これに対してルイ・フィリップは直接的な反対運動の指導者ではありませんでしたが、自由主義者たちは彼を、もし王位継承が必要になった場合に選びうる人物として意識し始めました。

 この頃のルイ・フィリップは慎重でした。シャルル10世への公然たる反乱を主導すれば、王族としての地位も将来の可能性も失う危険がありました。そのため、彼は表面上は忠誠を示しながら、自由主義派との連絡を保ち、政治情勢を注意深く見守りました。こうした慎重さは、彼の政治家としての長所であると同時に、必要以上に機会主義的だと見られることもありました。

Ⅴ.七月革命と王位への推戴

 1830年7月、シャルル10世は七月勅令を公布しました。これには新聞への検閲強化、代議院の解散、選挙資格の変更などが含まれていました。これらは立憲憲章の精神を損なうものとして広く反発を招き、パリでは7月27日から29日にかけて市民・学生・職人などが蜂起しました。これが七月革命です。

1830年の七月革命におけるパリ市庁舎(Hôtel de Ville)前での戦闘を描いた絵画 - Wikipedia

 革命の進展とともに、シャルル10世の退位が現実的になると、次の政体をどうするかが問題になりました。共和政を求める人々もいましたが、政治家や富裕な市民層の多くは、再び急進的な革命へ進むことを恐れました。そこで彼らは、ブルボン本家ではなく、その分家であり、革命と自由主義に比較的近い印象を持つルイ・フィリップを新たな君主として推戴する道を選びました。

 当初、ルイ・フィリップは「王国の総督」にあたる立場を受け入れました。これは、シャルル10世が退位する前に政治的空白を埋めるための措置でした。しかし、シャルル10世が孫のボルドー公アンリへ王位を譲ろうとした試みは実現せず、代議院はルイ・フィリップを国王として選ぶ方向へ進みました。

 1830年8月9日、ルイ・フィリップは「フランス国王」ではなく、「フランス人の王」として即位しました。この称号は重要です。「フランス国王」は、領土と王朝の伝統に基づく王権を想起させる表現でした。これに対して「フランス人の王」は、王が国民から支持を受け、国民との契約に基づいて統治するという理念を示していました。

 彼は伝統的な戴冠式を行わず、三色旗を国家の象徴として採用しました。また、質素な服装で市民と接し、傘を持って街を歩く姿などを演出したため、「市民王」と呼ばれるようになりました。この演出は、シャルル10世のような神聖王権の復活を目指す国王像とは対照的でした。

1830年7月31日、七月革命後にパリ市庁舎へ向かうルイ・フィリップ。オラース・ヴェルネ、1832年 — Wikipédia

Ⅵ.七月王政の成立と政治制度

 ルイ・フィリップの統治は、1830年から1848年まで続き、「七月王政」と呼ばれます。これは七月革命によって成立した立憲君主政であり、1830年憲章によって制度的基盤が整えられました。

1830年憲章 - Wikipedia

 1830年憲章では、国王の権限は以前より制限され、立法権における議会の役割が強まりました。カトリックは「国教」ではなく「多数者の宗教」とされ、報道の自由も原則として認められました。また、選挙資格のために必要な納税額が引き下げられ、有権者数は増加しました。

 しかし、この選挙制度は普通選挙ではありませんでした。選挙権を持てるのは、一定額以上の直接税を納める成年男性に限られていました。フランス全人口から見れば、有権者はごく少数でした。政治の主導権を握ったのは、土地所有者、銀行家、大商人、工場主、法律家、高級官僚など、財産と教育を持つ有産市民層でした。

 このため七月王政は、しばしば「ブルジョワ王政」と呼ばれます。ただし、この語は単に富裕な市民が政治で影響力を持ったことを示すだけではありません。七月王政が、革命期の急進的平等や民衆民主主義よりも、財産・納税・教育を政治参加の条件とみなす社会観に立っていたことを表しています。

 ルイ・フィリップは、自らを国民と議会に支えられた王と位置づけました。しかし、その「国民」は実際には、広大な農村人口や都市の労働者を十分に含むものではありませんでした。この代表性の限界が、後に政権の重大な弱点となります。

Ⅶ.国内の対立と王政への挑戦

 七月王政は成立直後から、多方向の反対にさらされました。第一に、シャルル10世とその孫シャンボール伯を正統な王位継承者と考える王党派が存在しました。彼らはブルボン本家の復帰を望み、ルイ・フィリップを正統な王とは認めませんでした。

シャンボール伯アンリ・ダルトワ - Wikipedia

 第二に、共和主義者がいました。彼らは、七月革命が国王を交代させるためではなく、国民が主権を取り戻すための革命だったと考えました。彼らから見れば、ルイ・フィリップの即位は、革命の成果を富裕な市民層が独占したものに見えました。

 第三に、ナポレオンの栄光を懐かしむボナパルト派も存在しました。彼らは強力な国家、国民投票、軍事的栄光を結びつけたナポレオンの遺産に期待を抱いていました。ルイ・フィリップは王政を守るため、こうした複数の反対勢力を監視し、時には弾圧しました。

 1832年には、ナポレオンの子であるライヒシュタット公の死去や、王党派のベリー公爵夫人による反乱計画など、政権を不安定にする事件が続きました。また、同年のパリではコレラ流行を背景に民衆暴動が起き、共和主義者が蜂起を試みました。ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』で描かれる1832年六月蜂起は、この時期の政治的・社会的緊張を象徴する出来事でした。

六月暴動でエポニーヌが息を引き取る場面。『レ・ミゼラブル』初版挿絵より - Wikipedia

 ルイ・フィリップ自身も暗殺未遂の標的になりました。1835年にはジュゼッペ・フィエスキらが、複数の銃身を束ねた「地獄の機械」と呼ばれる装置で国王を襲撃しました。国王は軽傷で済みましたが、多数の死傷者が出ました。政府はこの事件を機に報道・政治運動に対する規制を強化し、共和主義的な新聞や結社を厳しく取り締まりました。

国立公文書館博物館に展示されているフィエスキの地獄の機械(2012年) - Wikipedia

 このように、ルイ・フィリップの政権は自由主義的な憲章を掲げながらも、政権の安全が脅かされるたびに統制を強める傾向を見せました。自由を掲げて成立した政権が、秩序維持の名目で自由を制約するという矛盾は、徐々に大きくなっていきました。

Ⅷ.経済発展と社会問題

 七月王政期のフランスでは、産業化と交通網整備が進みました。鉄道建設が本格化し、石炭、鉄、繊維、機械工業などが発展しました。銀行家や投資家は鉄道会社や鉱山、工業企業に資金を投じ、パリを中心に金融資本の力が高まりました。ルイ・フィリップ政権は、こうした経済発展を国家の安定と繁栄に結びつけようとしました。

 道路、運河、港湾、鉄道の整備は、物資の流通と地域間の結びつきを強めました。都市人口も増え、商工業に従事する人々の数が拡大しました。教育、行政、博物館、歴史遺産の保存などの面でも、国家の役割は少しずつ広がりました。ルイ・フィリップはヴェルサイユ宮殿を「フランスのすべての栄光」に捧げる歴史博物館として再整備し、王政・革命・帝政という異なる時代の記憶をフランス国家の歴史として結びつけようとしました。

 しかし、経済成長の利益は均等に分配されませんでした。工場労働者の労働条件は過酷で、長時間労働、低賃金、劣悪な住環境、児童労働などの問題が深刻でした。都市の労働者は選挙権をほとんど持たず、議会政治のなかで自らの要求を反映させる手段が限られていました。

 1831年と1834年には、リヨンの絹織物労働者、いわゆるカニュートが賃金と労働条件をめぐって蜂起しました。政府は軍を用いてこれを鎮圧しました。これらの蜂起は、七月王政が抱えた社会問題を明確に示しています。政権は商工業の発展を支援しましたが、その発展の現場で働く労働者たちの生活不安に十分に応えられませんでした。

 1840年代には社会主義思想や労働者運動も広がりました。サン=シモン主義、フーリエ主義、ルイ・ブランの社会改革論などは、競争と私的所有だけに任せた社会の問題を批判しました。こうした思想はまだ国政を直接動かす規模ではありませんでしたが、七月王政が代表する有産者中心の政治に対する、重要な対抗理念となりました。

アンリ・ド・サン=シモン(左)、フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(中)、ルイ・ブラン(右) - Wikipedia

Ⅸ.対外政策とヨーロッパの中のフランス

 ルイ・フィリップは、ナポレオン時代のような大規模な対外戦争を避け、ヨーロッパの列強との協調を重視しました。七月革命直後、ヨーロッパの君主制諸国はフランスで再び革命が起きたことを警戒しましたが、ルイ・フィリップは対外的に慎重な姿勢をとることで、フランスが再び国際的孤立や戦争へ向かうことを避けようとしました。

 特にイギリスとの協調は重要でした。ルイ・フィリップ自身が長くイギリスに亡命していたこともあり、イギリスの立憲君主制を一つのモデルと見ていました。両国はベルギー独立問題などで協調し、フランスとイギリスの間に一定の安定した関係を築きました。

 1830年にベルギー革命が起こり、ベルギーがオランダからの分離独立を目指すと、フランスはこの問題に強い関心を持ちました。ルイ・フィリップ政権は、フランスの直接併合ではなく、列強の均衡を保ちながら独立ベルギーを成立させる方針をとりました。最終的にルイ・フィリップの娘ルイーズ=マリーは、初代ベルギー国王レオポルド1世と結婚しました。これは王朝外交としても大きな意味を持ちました。

オルレアン公女ルイーズ(ベルギー王妃)、ヴィンターハルター作、1841年 - Wikipedia

 一方で、フランスは北アフリカのアルジェリアで植民地支配を拡大していきました。フランスによるアルジェリア占領は1830年、シャルル10世の治世末期に始まりましたが、七月王政の下で征服と統治が本格的に進められました。現地ではアブド・アルカーディルが抵抗運動を指導し、フランス軍との戦争は長期化しました。ルイ・フィリップ政権は、ヨーロッパでは平和と協調を掲げる一方、北アフリカでは軍事力による支配拡大を進めました。

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 1840年、ナポレオンの遺骸をセントヘレナ島からフランスへ移してアンヴァリッドに葬る「遺灰の帰還」が行われました。これはボナパルト派の感情を和らげ、ナポレオンの記憶を国民的歴史の一部として取り込もうとする試みでした。しかし皮肉にも、ナポレオンへの関心の高まりは、のちにナポレオン3世となるルイ=ナポレオン・ボナパルトの政治的台頭にも有利に働きました。

1840年10月15日、ラ・ベル・プール号上で行われたナポレオンの遺灰の移送(ウジェーヌ・イザベによる絵画) — Wikipédia

Ⅹ.ギゾー内閣と改革拒否

 1840年代に入ると、ルイ・フィリップ政権の性格はより明確になりました。1840年以後、とくに1847年からはフランソワ・ギゾーが政府の中心人物となり、議会の多数派と国王の協力を基礎に統治を進めました。ギゾーは歴史家・政治家として知られ、財産を持ち教育を受けた人々が政治を担うべきだと考えていました。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー - Wikipedia

 ギゾー政権は、鉄道建設、商工業振興、教育制度の整備、対英協調などを推進しました。とりわけ1842年の鉄道法は、パリを中心に放射状の鉄道網を整備する重要な政策でした。また、初等教育の整備も進められました。これらの面で七月王政は、近代フランスの経済・行政基盤の形成に一定の役割を果たしました。

 しかし、ギゾー政権は選挙制度の改革を拒否しました。有権者の数はフランス人口に比べてあまりに少なく、政治参加を望む中産層の拡大にも対応できていませんでした。選挙権の拡大を求める改革派に対し、政府は「豊かになればよい」という趣旨の言葉で知られる姿勢を示しました。すなわち、政治参加を求めるなら財産を築き、納税資格を得るべきだという考え方でした。

 この考え方は、有産者中心の政治を守る論理としては一貫していましたが、貧困や失業に苦しむ人々、政治参加の道を閉ざされた中間層、労働者の不満には答えていませんでした。さらに1846年から1847年にかけて不作と経済不況が重なり、食料価格の上昇、失業、企業倒産が広がりました。政権に対する不満は政治問題だけでなく、生活問題と結びついて深刻化しました。

 改革派は、集会が規制されていたため、「改革宴会」と呼ばれる政治的な宴会を各地で開き、選挙法改正を訴えました。しかし政府は1848年2月、パリで予定されていた大規模な改革宴会を禁止しました。これが、すでに高まっていた不満を一気に爆発させる直接の契機となりました。

シャトー・ルージュの宴会(1847年7月9日)は、宴会運動の幕開けとなった — Wikipédia

Ⅺ.二月革命と退位

 1848年2月、改革宴会の禁止に反発した市民、学生、労働者らがパリで抗議行動を始めました。当初は選挙制度の改革を求める動きでしたが、政府による弾圧と、市民・軍隊の衝突によって事態は急速に拡大しました。ギゾー内閣は辞任に追い込まれましたが、混乱は収まりませんでした。

 2月23日夜、軍隊が市民に発砲し、多数の死傷者が出ると、パリ市民の怒りは決定的になりました。翌24日にはバリケードが築かれ、民衆がテュイルリー宮殿へ迫りました。国王を守るべき国民衛兵の中にも、民衆への発砲に消極的な者が多く、ルイ・フィリップは武力によって局面を打開することができませんでした。

アンリ=フェリックス=エマニュエル・フィリポトー作、「市庁舎前で赤旗を拒むラマルティーヌ」 - Wikipedia

 1848年2月24日、ルイ・フィリップは退位しました。彼は孫のパリ伯に王位を譲ろうとしましたが、この試みは成功しませんでした。パリでは臨時政府が成立し、フランス第二共和政の樹立が宣言されました。こうして1830年に始まった七月王政は、18年で終焉を迎えました。

ルイ=フィリップ1世の退位文書。フランス国立公文書館所蔵 — Wikipédia

 ルイ・フィリップは変装してフランスを脱出し、イギリスへ亡命しました。彼は「スミス氏」と名乗って海峡を渡ったと伝えられています。かつて革命によって亡命した青年王子は、国王として第二の革命に追われ、再びイギリスへ亡命することになりました。

Ⅻ.晩年と死去

 ルイ・フィリップは亡命先のイギリスで、サリー州クレアモントに暮らしました。クレアモントは、以前からオルレアン家と縁のある場所であり、彼は家族とともに比較的平穏な晩年を送りました。

亡命中のルイ=フィリップとその家族、1848年、クレアモント城のサロンにて。ウジェーヌ・ラミによる水彩画 — Wikipédia

 1850年8月26日、ルイ・フィリップはクレアモントで死去しました。享年76歳でした。彼の死は、フランス本国ではすでに第二共和政の時代に起こった出来事でした。まもなくルイ=ナポレオン・ボナパルトが権力を強め、1852年にはナポレオン3世として皇帝に即位しました。ルイ・フィリップの死後、フランスは再び帝政へ向かっていきました。

 彼の遺体は、のちにオルレアン家の墓所であるドルー王室礼拝堂に移されました。オルレアン家はその後もフランス王位への権利を主張する王党派の一系統として存続しましたが、ルイ・フィリップ以後、フランスで再び国王が即位することはありませんでした。

ルイ=フィリップ1世国王と王妃マリー=アメリーの墓所、ドルー王室礼拝堂 — Wikipédia

 

 このコインの鑑定枚数(1845年発行、リールミント、シャルル=ルイ・ディエリックス(リール造幣局長)のマーク)は、PCGS、NGCともに区分毎の枚数が不明でした。NGCではMS61がTop Popであると思われます。このコインは1844年~1848年の5年間発行され、最も発行枚数が少ないのは1848年発行、ボルドーミント、レイモン=アレクサンドル・ヴィーニュ(ボルドー造幣局長)の165,615枚であるようです。グレードが低いコインでもそれなりに高値が付きますので、ハイグレードのコインはかなり希少で高額になると思われます。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #227 『フランス王国 1/4フラン銀貨 シャルル10世』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス王国 1/4フラン銀貨 シャルル10世』です。

発行国  フランス王国
材質  シルバー
品位  0.900
発行年  1830年
発行枚数 659,290
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にシャルル10世の肖像が描かれ、その周囲にラテン語で「フランス王 シャルル10世」、下に「ミショー(エングレイバーのオーギュスト=フランソワ・ミショーのこと)」と刻まれています。裏面には中央にフランス王国の紋章(3つのフルール・ド・リス〔ユリの紋章〕)を配した盾が描かれ、その左右に額面の「1/4フラン」と「A(パリ造幣局のミントマーク)」、下に西暦の発行年「1830」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、オーギュスト=フランソワ・ミショーが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=110

 このコインは、フランス王国の国王シャルル10世の治世において発行されたコインです。シャルル10世の在位期間は1824年9月16日~1830年8月2日のおよそ6年間でした。今回は、シャルル10世について解説します。

シャルル10世 (フランス王) - Wikipedia

 ルイ18世については、#226で解説しましたので、そちらを参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

Ⅰ.誕生と家族的背景

 シャルル10世は1757年10月9日、ヴェルサイユ宮殿で生まれました。本名はシャルル=フィリップといい、父は王太子ルイ・フェルディナン、母はザクセン選帝侯家出身のマリア・ヨゼファで、祖父はルイ15世でした。兄にはのちに国王となるルイ16世(ルイ=オーギュスト)と、のちにルイ18世となるルイ=スタニスラスがいて、シャルルはブルボン家の王子の一人として、宮廷文化の中心で育ちました。

アルトワ伯爵と妹クロティルド。フランソワ=ユベール・ドルーエ画 - Wikipedia

 彼は幼少期からカトリック信仰と王家の伝統的価値観の下で教育を受けましたが、性格は兄たちと比べて活発で社交的でした。若いころから騎馬、狩猟、舞踏会、恋愛沙汰などを好み、政治よりも宮廷の楽しみに熱中した人物として描かれることが多いです。やがて「アルトワ伯」の称号を与えられ、この名で革命前・亡命期を通じて知られるようになります。

Ⅱ.革命前夜のアルトワ伯

 成長したシャルル(アルトワ伯)は、ルイ16世の治世下で王弟として宮廷生活を送り、マリー・アントワネットとも親しく交わりました。宮廷内では浪費と享楽を好む一方で、政治的には王権と貴族社会の権威を重んじる立場にありました。18世紀末の改革論争において、彼は財政改革や身分秩序の見直しには慎重で、むしろ既存の秩序を維持する方向を支持していたとされています。

アントワーヌ=フランソワ・カレによる、聖霊騎士団の正装を身にまとったアルトワ伯(後のシャルル10世)の肖像、1775年頃 - Wikipedia

 しかし1789年にフランス革命が勃発すると、状況は急変しました。三部会の開催、国民議会の成立、バスティーユ襲撃などを通じて、王権への信頼は急速に失われました。王宮周辺の治安も悪化し、王族の身の安全が脅かされる中で、アルトワ伯は革命のごく初期の段階で国外へ退く決断を下しました。これが長い亡命生活の出発点でした。

Ⅲ.亡命と反革命の中心人物として

 1789年以降、アルトワ伯シャルルはイタリア北部やドイツ諸邦、イギリスなどを転々としながら亡命生活を送りました。彼は同じく亡命した貴族や王党派軍人たちと連携し、国外から革命政府と戦うことを目指しました。オーストリアやプロイセンといった君主制諸国に働きかけ、軍事的介入による王政復活の構想を進めようとしました。

 1792年に王政が廃止され、1793年に兄ルイ16世が処刑されると、アルトワ伯にとって闘争の意味はいっそう深刻なものになりました。彼はブルボン家の一員として、兄の無念と王家の名誉を回復することを強く意識するようになりました。革命政権やその後継政権に対して妥協する姿勢をほとんど見せず、亡命先からはあくまで王政の完全な回復を訴え続けました。

アンリ=ピエール・ダンルーによる、1798年のアルトワ伯時代のシャルル - Wikipedia

 この時期、彼は軍事的行動を好む性格と強い王権信仰をあわせ持つ人物として、亡命貴族社会の中で重要な位置を占めました。一方で、フランス国内では革命軍が健闘し、対仏同盟諸国も決定的な勝利を得られず、アルトワ伯の構想は実現しませんでした。

Ⅳ.ナポレオン時代の亡命生活

 1799年にナポレオン・ボナパルトが政権を掌握し、1804年に皇帝に即位すると、亡命ブルボン家の復帰はますます遠のきました。アルトワ伯はイギリスに長く滞在し、ロンドンやスコットランドのエディンバラなどで生活しました。彼はそこで、フランス革命とナポレオン体制に反対するヨーロッパの保守派と交流を持ちつつ、王政復古の機会をひたすら待ち続けました。

ロンドンのメイフェア地区、サウス・オードリー・ストリート72番地にあるブルー・プラーク。1805年から1814年まで、シャルル10世が住んでいた邸宅 - Wikipedia

 同じ亡命王族である兄ルイ18世が、一定程度革命後の社会変化を認め、立憲的な王政の必要性を意識するようになっていったのに対し、アルトワ伯はより従来の身分秩序と王権を重んじる姿勢を保ち続けました。彼にとっては、革命による変化はフランスと王家を破壊した災厄であり、それに対して譲歩することは、犠牲となった家族や仲間への裏切りにも等しく感じられたと考えられます。

Ⅴ.王政復古とルイ18世政権下の役割

 1812年のロシア遠征以後、ナポレオン帝国が弱体化すると、やがて1814年に連合軍がパリに入り、ナポレオンは退位しました。兄ルイ18世がフランス王として即位し、ブルボン朝が復活すると、アルトワ伯シャルルも亡命から戻り、再びフランス政治の舞台に立つことになりました。

ポーリーヌ・オーズー作『シャルル10世の帰還』 - Wikipedia

 ルイ18世は革命と帝政の経験を踏まえ、1814年憲章を通じて立憲君主制の枠組みを整えました。彼はナポレオン法典や行政機構の多くを維持しつつ、議会とともに統治する道を模索しました。一方、アルトワ伯は、亡命貴族や王党派の期待を背負い、より従来の貴族社会の利益と教会権威の回復を求める立場から、政権の方向性に影響を及ぼそうとしました。

 彼はとくに、革命期に財産を失った貴族への補償、教会への財産返還、カトリック教育の強化などを強く支持しました。このため、革命後に土地を獲得した地主層や、法の前の平等に価値を置く都市の市民層からは、アルトワ伯の動きが「王政復古を旧制度に近づけようとする圧力」として意識されるようになりました。

Ⅵ.ベリー公暗殺と政治姿勢の硬化

 アルトワ伯には子があり、そのうち次男のベリー公シャルル・フェルディナンは、ブルボン家直系の継承を担うと期待されていました。王党派にとって、彼は未来のフランス王政を支える希望の存在でした。ところが1820年、ベリー公がパリのオペラ座前で暗殺される事件が起こりました。

アレクサンドル・マンジョー作『ベリー公の死』 - Wikipedia

 この暗殺は、シャルルに深い衝撃を与えました。彼は息子の死を、革命以来続く王家への暴力の連鎖の一環と受け止め、自由主義的・革命的勢力に対する不信を一層強めました。事件後、政府は治安維持と王家保護を名目に言論や集会への規制を強め、政治は全体として保守的な方向へ振れました。

 まもなくベリー公の未亡人から男児(シャンボール伯アンリ)が生まれ、ブルボン直系の継承は形式的には保たれましたが、シャルルが心の底から抱く危機感は消えませんでした。王家は何度も暴力の標的となってきた以上、王権を守るためには自由や権利よりも秩序と信仰を優先すべきだという確信が、彼の中でより強く固まっていきました。

Ⅶ.1824年の即位と王としての出発

 1824年、兄ルイ18世が死去すると、アルトワ伯はシャルル10世としてフランス王に即位しました。彼は復古王政期のブルボン朝において最後の国王となりました。

 即位後、シャルル10世はランス大聖堂で盛大な戴冠式を行いました。これは革命期以降中断していた、王を聖油で聖別する伝統的儀礼の再開であり、自らを「神に選ばれた王」として位置づける強い象徴的意味を持っていました。彼はこうした儀礼を通じて、王権の宗教的正統性を国民に示そうとしましたが、革命以後の世代にとってその意味は以前ほど自明ではありませんでした。

フランソワ・ジェラール作『シャルル10世の戴冠式』。ランス大聖堂における、フランス国王シャルル10世の聖別・戴冠式 - Wikipedia

 シャルル10世は敬虔なカトリック信徒であり、王権と教会を密接に結びつける伝統的な統治理念を重んじました。その一方で、立憲君主制の憲章体制や議会の役割については、必要な枠組みとは認めつつも、自らの行動を大きく縛るものとは考えていなかった節があります。

Ⅷ.旧貴族・教会優遇政策と社会の反発

 シャルル10世の治世で最も象徴的な政策の一つが、いわゆる「十億フラン法」です。これは革命期に財産を没収された貴族に対して、国庫から巨額の補償金を支払うというものでした。革命で処分された土地そのものを返すのではなく、現状の所有権は認めたうえで、旧所有者には金銭で償う形をとりましたが、巨額の財源負担は納税者全体にのしかかりました。

 この法律は、亡命貴族やその家族にとっては待望の救済策でしたが、改革と戦争の時代を通じて自力で財産を築いた新しい地主層や、都市の商工業者にとっては「特定の身分だけを手厚く優遇する政策」と映りました。革命後の「法の下の平等」を当然視する人々にとって、身分を理由にした補償は時代錯誤に見えました。

 また、シャルル10世は教育や言論の分野でも教会の役割を強め、政府に批判的な新聞や出版に対する規制を強化しました。これらの施策は、信仰を重んじる多くの民衆や地方の保守的層には受け入れられましたが、都市の中産階級やインテリ層からは、思想・言論の自由を後退させるものとして警戒されました。

1821年から首相を務め、10億フラン法等を推進したジョセフ・ド・ヴィレール - Wikipedia

Ⅸ.議会との関係と外交政策

 立憲君主制の枠組みのなかで、シャルル10世は議会との関係においても慎重さを欠く場面が目立ちました。選挙権は高額納税者に限定されており、有権者数は非常に少なかったにもかかわらず、その中からも自由主義的な議員が増え、政府への批判が議会内で強くなっていきました。シャルル10世は、議会の多数派と妥協するよりも、解散や選挙制度の変更によって自らに好ましい議会構成を実現しようとする傾向が強かったといえます。

 一方、外交面ではスペインへの軍事介入が重要な出来事でした。1820年にスペインで自由主義革命が起こり、フェルナンド7世が立憲王政を受け入れざるをえなくなると、ヨーロッパの保守諸国はこの動きを自国への脅威と見なしました。シャルル10世(当時はまだ王位継承者の立場)とその周辺は、スペインの王権を支えることがヨーロッパの君主制を守ることにつながると考えました。

 1823年、フランス軍は「聖ルイの百千の子」と呼ばれる遠征軍をスペインへ派遣し、自由主義勢力を打倒してフェルナンド7世の権力を回復させました。この軍事介入は成功し、フランスの国際的威信は一時的に上がりましたが、「自由主義運動に対する武力弾圧」という印象も強めました。フランス国内の自由主義者は、自国政府が他国の自由主義革命を鎮圧する役割を担ったことに複雑な感情を抱きました。

ホセ・アパリシオ作『エル・プエルト・デ・サンタ・マリアにおけるフェルナンド7世の上陸』、1828年。解放されたばかりのフェルナンド7世が、アングレーム公およびその他のフランス軍司令官たちと会見している場面が描かれている - Wikipedia

Ⅹ.1830年の七月勅令

 1830年に入ると、選挙の結果、下院議会では政府批判的な議員が多数を占めるようになりました。シャルル10世にとって、これは王権と伝統的秩序を守るうえで重大な脅威と映りました。そこで彼は、憲章体制の枠内で議会と折り合いをつけるのではなく、勅令によって政治状況を一気に変えようとしました。

 1830年7月、彼は「七月勅令」と総称される一連の勅令を出し、新聞に対する事前検閲の導入・強化、直近の選挙で選ばれた代議院の解散、選挙資格の大幅な変更(有権者をさらに富裕層に限定)、などを命じました。

 これらの勅令は、形式的には憲章に基づく国王の権限として出されたものの、実質的には議会制の意味を弱め、国王が自らに有利なルールに一方的に作り替えた行為と受け止められました。パリの新聞界と市民層は激しく反発し、職人や学生を含む多くの人々が街頭に繰り出しました。7月27日から29日までの三日間にわたり、パリ市内はバリケードと戦闘で混乱し、この蜂起はやがて「七月革命」と呼ばれるようになります。

7月革命のイメージ『民衆を導く自由の女神』ウジェーヌ・ドラクロワ 1830年 ルーヴル美術館所蔵 - Wikipedia

Ⅺ.退位と再亡命

 七月革命の最中、政府軍は一部で抵抗したものの、市民の士気と規模に押され、パリを完全には制圧できませんでした。シャルル10世は軍とともに郊外へ退避し、状況の挽回を試みましたが、議会や政治エリートの間でも彼を支持し続ける動きは弱く、政権の存続は不可能になりました。

 1830年8月2日、シャルル10世は正式に退位文書に署名し、名目上は孫のボルドー公アンリ(のちのシャンボール伯)に王位を譲ろうとしました。しかし、パリの政治家たちはブルボン本家の継続を受け入れず、代わりにオルレアン家のルイ・フィリップを「フランス人の王」として推戴しました。こうしてブルボン本家の王政は幕を下ろし、七月王政が始まりました。

シャルル10世、ボルドー公アンリ・ダルトワを支持して退位、シャンボール伯爵、ランブイエへ 8月2日

 シャルル10世は家族とともにフランスを離れ、再び亡命生活へ戻りました。最初はイギリスに赴き、スコットランドのエディンバラなどで過ごした後、オーストリア帝国領内のゴリツィアへ移り住みました。

Ⅻ.亡命の晩年と死

 亡命後のシャルル10世は、ゴリツィア近郊の修道院や邸宅で静かな生活を送りました。彼は依然として自らを正統なフランス王と考えていましたが、政治的影響力を回復する見込みはほとんどありませんでした。宗教生活に重きを置き、家族とともにミサや祈祷を欠かさなかったと伝えられます。

 1836年、ヨーロッパにコレラが流行すると、シャルル10世も感染し、11月6日にゴリツィアで死去しました。享年79歳でした。彼の遺体は近郊の修道院(現在のスロヴェニア・コスタニェヴィツァ修道院)に葬られ、ブルボン家亡命王族たちの墓所の一つとなっています。

スロベニアの都市ノヴァ・ゴリツァにあるコスタニェヴィツァ修道院にある、シャルル10世とその息子ルイの墓 - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数(1830年発行、パリミント、ジャン=ピエール・コロー(パリ造幣局造幣局長)のマーク)は、PCGSでは20枚(ただしMSより下は詳細に区分されておらず、正確な枚数が不明)あり、Top PopはMS66となります。NGCは区分毎の枚数が不明でした(Top PopはMS64?)。このコインは1825年~1830年の6年間発行され、最も発行枚数が少ないのは1828年発行、リモージュミント、ジャン・パラン(リモージュ造幣局長)の822枚であるようです。ハイグレードのコインはかなり希少であると思われます。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙