コイン探求の旅 #49 『ジャイプル藩王国 1/2パイサ銅貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ジャイプル藩王国 1/2パイサ銅貨』です。

発行国  ジャイプル藩王国(インド)
材質  カッパー
品位  ?
発行年  1942~1943年
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  F~XF相当
サイズ

 藩王国については、以下にまとめましたので参照して下さい。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 このコインは、表面にはマーン・シング2世の名前が刻まれています。裏面には中央にジャイプルのシンボル(Jharと言います)が描かれ、その右上に22と刻まれています。22は発行年ではなく、マーン・シング2世が即位した1922年の事を示します。

 マーン・シング2世については、前回#48で書きましたので、今回は割愛します。#47を参照して下さい。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 

 このコインの鑑定枚数は、PCGS、NGC共に見当たりませんでした。さほど珍しいコインというほどではないと思いますが、数字が付くほど状態が良好なコインが残っていないのでしょうかね?真贋判定も難しそうですね。ジャイプルのコインはルピー銀貨がありますので、できればそちらに置き換えたいと思っています。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙

コイン探求の旅 #48 『ジャイプル藩王国 1アンナ青銅貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ジャイプル藩王国 1アンナ青銅貨』です。

発行国  ジャイプル藩王国(インド)
材質  ブロンズ
品位  ?
発行年  1944年
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 藩王国については、以下にまとめましたので参照して下さい。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 このコインは、表面にはマーン・シング2世の肖像とその下にジャイプルのシンボル(Jharと言います)が描かれ、周囲にデーヴァナーガリー文字で「マハラジャディラジ・サワーイー・マーンシング2世」と刻まれています。サワーイーは世襲称号を表します。裏面には中央にJharが描かれ、その左右に西暦で発行年1944、Jharの右下と左下にペルシャ文字とデーヴァナーガリー文字で「Ek Aana(1アンナ)」と刻まれています。

 ジャイプル藩王国は、インド北部に位置しています。

ジャイプル藩王国(アンベール王国) - Wikipedia

 このコインは、ジャイプル藩王国のマーン・シング2世の治世において発行されたコインです。マーン・シング2世の在位期間は1922~1947年の25年間でした。

マーン・シング2世 - Wikipedia

 マーン・シング2世は、先代の王であったマードー・シング2世が亡くなったことに伴い、王位を継ぎました。その時マーン・シング2世はまだ10歳でした。詳細は不明ですが、統治権を得たのはおそらく成人してからの事になったと思われます。マードー・シング2世には65人以上もの子供がいましたが、彼は何らかの迷信により嫡男をもうけないようにしており、マーン・シング2世は彼の養子となって王位を継ぎました。

Madho Singh II - Wikipedia

 先代の王マードー・シング2世は、国内の近代化に熱心で学校、大学、病院、博物館を建設しました。マーン・シング2世もその考えを受け継いで近代化を行い、数多くの公共機関を設立するなど、ジャイプルの発展に大いに貢献しました。

 1947年のインド・パキスタン分離独立においてはインドに帰属することになりますが、ジャイプルにとって少しでも優位な条件とするために1949年まで帰属することを遅らせました。その結果、当初は内政権を保持したままラジャスタン州連合の一部となりました。また、1971年12月28日にインド憲法第26条改正案が採択されるまで、爵位、妃殿下、その他の特権を保持しました。マーン・シング2世は亡くなるまでジャイプルマハラジャという地位であり続けました。

 マーン・シング2世、熱心なポロ・プレーヤーとしても知られており、1933年にはワールドカップ優勝などのトロフィーを獲得しました。ジャイプルのサワーイー・マーンシング・スタジアムは、彼にちなんで命名されました。

Sawai Mansingh Stadium - Wikipedia

 1970年6月24日、マーン・シング2世はイギリスのサイレンセスターでポロ競技中に事故に遭い、その日のうちに亡くなりました。まだ57歳という若さでした。2005年3月30日、ジャイプールのラム・ニワス・バグに彼の銅像が設置され、盛大な除幕式が行われました。

The unveiling ceremony of Sawai Man Singh's statue in Jaipur on Rajasthan day, 30 March 2005


 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは1枚ありTop PopはMS64となります。NGCでは6枚あり、Top PopはMS65となります。私が知る限り、ジャイプルのコインで肖像が描かれているのはこの1種類のみだと思います。コインショップやフリマサイトで見かける機会も少ないので、ジャイプルのコインとしては希少な方ではないかと思います。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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コイン探求の旅 #47 『サウジアラビア王国 1リヤル銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『サウジアラビア王国 1リヤル銀貨』です。

発行国  サウジアラビア王国
材質  シルバー
品位  0.9167
発行年  1935年
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面にはアラビア語で円の内側に国王の名前「アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・アール・サウード」、円の外側に「サウジアラビア王国の王」と刻まれ、下部に交差した剣が描かれています。裏面にはアラビア語で円の内側に「聖なる都市メッカで鋳造された」、円の内側下部にヒジュラ暦の発行年である1354、円の外側に「1 サウジアラビア リヤル」と刻まれ、下部にヤシの木と額面の「1」が描かれています。

 このコインは、サウジアラビア王国の初代国王であったアブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・アール・サウード(長いので、以降別名であるイブン・サウードと記載します)の治世において発行されたコインです。イブン・サウードの在位期間は1932~1953年の21年間でした。

The official portrait of King Abdulaziz, the founder of the Kingdom of Saudi Arabia. - Wikipedia

 イブン・サウードの父であるアブドゥルラフマーン・ビン・ファイサルは、ネジュド首長国(第二次サウード王国)の王でしたが、1836年にネジュド首長国から独立したジャバル・シャンマル王国のアブドゥッラー1世により一家共々クウェートに追放され、1891年にネジュド首長国は滅亡しました。

ネジュド首長国(第二次サウード王国) - Wikipedia

 ジャバル・シャンマル王国は、当時強勢を誇ったオスマン帝国の後ろ盾があって建国された国家でした。しかし、19世紀に入るとオスマン帝国は衰退し、ジャバル・シャンマル王国のアラビア半島における優位性は次第に失われていきました。1902年、クウェートに追放されたイブン・サウードは、父と共にサウード家復興を掲げジャバル・シャンマル王国への侵攻を開始しました。1902年1月15日、イブン・サウードはわずか40人の兵を率いて首都リヤドの城壁をヤシの木伝いに乗り越え、リヤドの占領に成功しました。これに対し、首長アブドゥルアズィーズ・ビン・ムトイブ・アッ=ラシードは、自らサウード家の追討に向かいましたが、1906年にラウダト・ムハンナーの戦いで戦死しました。この敗戦がきっかけとなりジャバル・シャンマル首長国は衰退、1921年サウード家に降伏して滅亡しました。

ジャバル・シャンマル王国 - Wikipedia

 イブン・サウードは、1931年にナジュド及びヒジャーズ王国(翌年、国名をサウジアラビア王国に変更)の建国を宣言して自ら王となりました。

 第2次世界大戦では、サウジアラビア王国は連合国として参戦しました。1945年2月、イブン・サウードは、ヤルタ会談からアメリカに戻る途中のルーズベルト米國大統領とスエズ運河に停泊中の米巡洋艦上で会見しています。

アメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領らと会談するイブン・サウード- Wikipedia

 サウジアラビアでは、1938年にサウジアラムコにより初めて油田が発見されました。それはサウジアラビアの国力や世界的な重要度を大きく増すことになりました。1948年に起こった第一次中東戦争パレスチナ戦争)後、アメリカ合衆国との協調関係が進み、アメリカ合衆国から新鋭機械を導入し油田開発に当たりました。

サウジアラムコ - Wikipedia

 イブン・サウードは、1953年11月9日に狭心症により78歳で亡くなりました。彼の遺体は、リヤドのウード墓地に埋葬されました。アメリカ大統領ドワイト・アイゼンハワーは、1953年11月11日にイブン・サウードの追悼メッセージを発表しました。また、アメリ国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、イブン・サウード国王は政治家としての功績によって記憶されるだろうと述べました。

Al Oud cemetery - Wikipedia 

 イブン・サウードには89人(正確な人数は不明のようです)の子供がおり、男子は52人、女子は37人とされています。2015年に国王に就任し現国王であるサルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウードは、イブン・サウードの25番目の男子となります。

サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数(1935年発行)は、PCGSでは51枚あり、Top PopはMS66となります。NGCでは122枚あり、Top PopはPF67となります。私が所有しているような比較的状態が良いコインは、フリマサイト等で簡単に見つかると思いますので、さほど希少ではないと思います。購入を検討されている方は、是非スラブ入りの状態が良いコインを探してみてはいかがでしょうか?

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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コイン探求の旅 #46 『ナワナガル藩王国 ドクド銅貨』

 年内のブログ更新は、今回で最後となります。

 いつもブログをご覧頂き、ありがとうございました!

 来年もよろしくお願いいたします<m(__)m>

 皆様、良いお年を!(^^)/

 

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ナワナガル藩王国 ドクド銅貨』です。

発行国  ナワナガル藩王国(インド)
材質  カッパー
品位  ?
発行年  1540~1948年
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  AG~G相当
サイズ

 藩王国については、以下にまとめましたので参照して下さい。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 このコインは、表面にはヒジュラ暦の年号で978、デーヴァナーガリー文字でスリ・ジャムジと刻まれています。ヒジュラ暦978年はナワナガル王国が誕生した年で、スリ・ジャムジは支配者の称号です。978年はコインの発行年ではありません。裏面には中央やや右下にカタール(短剣)の絵が描かれています。それ以外の部分については、よく分かりませんでした。

 このコインは、前回#45でご紹介した1コリ銀貨とデザイン、碑文は全く同一であると思われます。発行年も1540~1948年のおよそ400年間で、いつ発行されたのか不明です。コインの状態からすると、もしかしたらナワナガル王国時代に発行されたのかもしれません。今回はコインの背景等は割愛しますので、#45を参照してください。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 

 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは見当たりませんでした。NGCでは2枚あり、VFとなります。ドクド銅貨は、フリマサイトで簡単に見つかると思いますが、状態が良いコインは見たことが無いので希少なのかもしれません。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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コイン探求の旅 #45 『ナワナガル藩王国 1コリ銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ナワナガル藩王国 1コリ銀貨』です。

発行国  ナワナガル藩王国(インド)
材質  シルバー
品位  ?
発行年  1540~1948年
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  G~VG相当
サイズ

 藩王国については、以下にまとめましたので参照して下さい。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 このコインは、表面にはヒジュラ暦の年号で978、デーヴァナーガリー文字でスリ・ジャムジと刻まれています。ヒジュラ暦978年はナワナガル王国が誕生した年で、スリ・ジャムジは支配者の称号です。978年はコインの発行年ではありません。裏面には中央やや右下にカタール(短剣)の絵が描かれています。それ以外の部分については、よく分かりませんでした。

 ナワナガル藩王国は、インド西部に位置しています。

Pudukkottai State - Wikipedia

 このコインは、ナワナガル王国が誕生してから第2次世界大戦後にインドに帰属するまでのおよそ400年に渡って作られ、使われ続けたコインであるようです。今回は、比較的新しい年代で発行された想定で、1900年代に最も長く国王の座にあったランジット・シンジについて解説します。よって、正確なコインの発行年とずれがある可能性がありますので、その点はご承知おきください<m(__)m>

 ランジット・シンジの在位期間は、1907~1933年の26年間でした。

Ranjitsinhji - Wikipedia

 彼は35歳になってから王位に就きましたが、それ以前は有名なクリケット選手でした。

 ランジット・シンジがクリケットを始めたのは10歳の頃で、チームでキャプテンを務めるほどに上達しました。彼はその年代でおそらく様々な記録を打ち立てていたはずですが、その頃のインドでプレイされていたクリケットは低水準で、またイギリスとは異なるものだったようで、明確な記録は残念ながら残されていません。1888年にロンドンに渡り、その後ケンブリッジ大学に入学しました。彼はそこでバッツマン(攻撃側の打者)として大活躍し、テストマッチイングランド代表としてプレーしました。彼は、素早い反応と個性的なスタイルでクリケットに革命をもたらしました。特に、レッググローというショットが有名で、それは彼が考え出したものでした。彼はインドで最も早くトップクラスのクリケット選手となったため「インド・クリケットの父」と呼ばれています。

Ranjitsinhji caricatured by Spy for Vanity Fair, 1897 - Wikipedia

 ランジット・シンジは、クリケットで数々の記録を打ち立てたようですが、クリケットに疎い私にはよく分かりませんでしたので、詳細は割愛します。Wikipediaに以下の記録が書かれていましたので、参考までに載せておきます。これを見ても、残念ながら私にはピンときません(^^;

Ranjitsinhji - Wikipedia

 ランジット・シンジは、先代の王であるジャッサジが1906年に死去したため王位を継ぐことになりますが、ジャッサジは毒殺された疑いがあり、ランジット・シンジが関わったのではないかという疑いをもたれ、ジャッサジの未亡人が訴訟を起こしました。最終的に、彼のクリケット選手時代の人気やイギリス要人との密接な関係が考慮されたためか、訴訟は棄却となり王位を正式に継ぎました。

 彼が即位した時点のナワナガルは干ばつの影響により、国民は貧困と病気に苦しんでいました。1907年には、首都のジャムナガルでは毎日30人が病気で亡くなっていました。彼自身も病気となり、一時イギリスに渡りクリケットの試合に出場しながら療養し、やがて帰国しましたが、多くのスタッフが彼の下を去っており、さらには彼の暗殺が計画されていることが発覚しました。彼は国の貧しさを解消するため無理がある政策を採用したため、いくつかの村で反乱が起こりそれらを討伐しなければなりませんでした。こういった状況により、近代化は思ったように進みませんでした。

 第一次世界大戦が勃発すると、ランジット・シンジは1914年にヨーロッパの西部戦線に赴きました。その間、ナワナガルの行政官であったベルトンはようやく近代化計画の実施に取り掛かりました。首都のスラム街を撤去し、新たな家屋、商店、道路を建設、灌漑設備を整備し、干ばつによる被害を軽減しました。また、財政を改善し、鉄道網を整備しました。ランジット・シンジが帰国後も、イギリス政府はベルトンの留任を望みましたがランジット・シンジはそれを拒否、最終的にベルトンの地位を格下げすることで妥協しました。ベルトンはそれを恨むようなことはなかったようで、1920年に引退した後もランジット・シンジとは親しい間柄でした。

 ナワナガルの財政は、その後もベディ港の建設によりさらに改善されました。ナワナガルの収入は1916年から1925年の間に2倍以上に増加しました。ランジット・シンジは即位後も多くの負債を抱えるなど、金銭面では非常に苦労し続けましたが、ようやく王族らしい贅沢な暮らしができるようになりました。

Bedi Port, Nawanagar | Maritime Trade of Gujarat's Princely States: Nawanagar and Porbandar @ IIMA Archives

 ランジット・シンジは、1933年4月2日に心不全によりで60歳で亡くなりました。彼の遺体は火葬され、遺灰はガンジス川に撒かれました。

 

 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは1枚ありTop PopはMS62となります。NGCでは5枚あり、Top PopはMS63となります。ナワナガル藩王国のコインは、銅貨であればフリマサイトで見つかると思いますが、銀貨を見かける機会は少ないのではないかと思います。インドのコインを集められている方は、是非探してみてください。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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コイン探求の旅 #44 『イギリス 2シリング銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『イギリス 2シリング銀貨』です。

発行国  イギリス
材質  シルバー
品位  0.5
発行年  1942年
発行枚数  39,895,200枚
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面にはジョージ6世の肖像が中央に描かれ、周囲にラテン語で「神の恩寵ある全ブリタニアの王ジョージ6世」と刻まれています。裏面にはアザミとシャムロックに挟まれた王冠を被ったチューダー・ローズが中央に描かれ、周囲にラテン語で「信仰の守護者にしてインドの皇帝」と刻まれています。

 ジョージ6世は、言わずと知れたイギリス国王です。在位は1936年12月11日~1952年2月6日のおよそ15年間でした。

ジョージ6世 (イギリス王) - Wikipedia

 また彼は、最後のインド皇帝であり、最初のコモンウェルス首長となった人物です。コモンウェルスとは、イギリスがかつて植民地として支配していた国を指します。以前はイギリス連邦と呼ばれていました。

Member states of the Commonwealth of Nations - Wikipedia

 ジョージ6世は、ジョージ5世の長兄であるエドワード8世が1936年12月11日に退位したことに伴い、王位に就きました。エドワード8世は、アメリカ人女性のウォリス・シンプソンとの結婚を望んでいましたが、彼女には離婚歴があり2番目の夫とまだ婚姻関係にあったため、議会はそれを認めず激しく対立しました。エドワード8世は、結婚か退位かの2択を迫られ、最終的に退位することを選びました。

エドワード8世とウォリス・シンプソン - Wikipedia

 ジョージ6世の治世は、まさに困難の連続でした。

 1939年9月1日にナチス・ドイツポーランドに侵攻し第2次世界大戦が勃発、イギリスは9月3日にドイツに宣戦布告しました。ジョージ6世はそれに合わせて全国民にラジオ放送を行いました。ジョージ6世は吃音症で、それまで行ってきた演説は悲惨な結果に終わることが多かったのですが、長年の治療の効果によりその9分間にわたって行われたスピーチは大変素晴らしく、国民を勇気づけるものでした。この辺りのお話は、2010年に公開された映画「英国王のスピーチ」の中で描かれています。未見の方は是非!

英国王のスピーチ - Wikipedia

 連合国として参戦したイギリスは、およそ5年にわたって枢軸国と戦い続けました。ジョージ6世チャーチル首相と連携し、イギリス国民の士気を支え続けました。また、海外に遠征している部隊を慰問するため、自らフランス、北アフリカ、マルタ等の地を訪れました。こういった行動により、国民からは高い敬意を受けました。

英陸軍元帥バーナード・モントゴメリーと(1944年10月12日) - Wikipedia

 ちなみに、開戦直前の1939年5月には夫妻でカナダを訪れており、それを記念して銀貨が発行されています。そちらは別の機会に解説したいと思います。

 第二次世界大戦は連合国の勝利に終わりましたが、イギリス本土は戦時中にドイツの空襲を受け、アジア周辺の植民地は日本軍に蹂躙されるなどしたため、その権威は大きく失墜していました。終戦に伴い、イギリスが支配していたインド等の植民地は’次々に独立していきました。また、戦後はアメリカとソ連の2大超大国の冷戦という構図となり、かつて世界に覇を唱えた大英帝国の面影は徐々に薄れていきました。

 ジョージ6世は、戦時中の心労とヘビースモーカーであったことが影響し、1949年頃から次第に体調を崩し、動脈閉塞や肺の悪性腫瘍などさまざまな病気を患いながらも1952年まで政務を続けました。しかし1952年2月6日、就寝中の冠動脈血栓症により、サンドリンガム・ハウスのベッドで死亡した状態で発見されました。56歳という若さでした。ジョージ6世は、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂にある歴代王族の墓所に葬られました。後に国王ジョージ6世記念礼拝堂が建設され、1969年3月26日に改葬されました。王位は、エリザベス女王(エリザベス2世)が継ぎました。

King George VI Memorial Chapel - Wikipedia

 

 このコイン(1942年発行)の鑑定枚数は、PCGSでは見当たりませんでした。English ReverseとScottish Reverseはあるんですよね・・・1枚もないなんてこと、ありえないと思うのですが(^^; 調べ方が間違っているのか・・・良く分かりませんでした。NGCでは3枚あり、Top PopはMS63となっていますが、どのタイプなのか書かれておらず、こちらも正確な情報が不明でした。Numistaによると、1942年発行が全体の38%とのことですので、このタイプのコインの中では最も希少価値が薄いという事になります。1937年発行のマットプルーフは、わずか2枚しか存在しないらしいので、かなり希少なようですね。イギリスのコインがお好きな方は、是非探してみてください。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #43 『バーラクザイ朝 1ルピー銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『バーラクザイ朝 1ルピー銀貨』です。

発行国  バーラクザイ朝(アフガニスタン
材質  シルバー
品位  ?
発行年  1880~1891年
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  G~VG相当
サイズ

 バーラクザイ朝(Barakzai dynasty)のコインは、フリマサイトで比較的よく見かけるのですが、ほとんどの出品者さんが何故か「バークラザイ朝」と記載しています。これは誤りであると思いますので、ここではバーラクザイ朝と記載します。

 このコインは、表面にはアミール(支配者)のアブドゥッラフマーンの名前と、左下にヒジュラ暦の年号が刻まれていますが、一部見切れていて正確な発行年が不明です。裏面には左上にヒジュラ暦の年号(こちらも判別困難)、「首都のカブールで鋳造された」と刻まれています。

 このコインは、アフガニスタン首長国のアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長の意味)であったアブドゥッラフマーン・ハーンの治世において発行されたコインです。アブドゥッラフマーン・ハーンの在位期間は1880~1901年の21年間でした。

アブドゥッラフマーン・ハーン - Wikipedia

 先代のアミールであった伯父のシール・アリー・ハーンは、イギリスとの戦い(第二次アフガン戦争、1878~1880年)のさ中に亡くなりました。その後継者であったムハンマド・ヤアクーブ・ハーンはインドに亡命したため、アブドゥッラフマーン・ハーンが1880年に新たにアミールとなりました。第二次アフガン戦争は、イギリス側が大きな損害を受けながらも優位に進んでおり、アブドゥッラフマーン・ハーンはイギリスに外交権を委ね、保護国となることを承諾せざるを得ませんでした。第二次アフガン戦争は、当時南下政策を進めていたロシアがアフガニスタンに進出することをイギリスが懸念し始められた戦争で、そのアフガニスタン保護国としたことで目的は達成されたと判断したため、イギリスは1881年に撤退することとなりました。

Second Anglo-Afghan War - Wikipedia

 イギリス軍の撤退後、アブドゥッラフマーン・ハーンは内政を重視し中央集権化に努め、アフガニスタンの封建的割拠状態の除去と経済発展を促進しました。しかし、急速な近代化政策には強い抵抗がありました。彼は、古くからの慣習により税金を納めることで一定の自治を認められていた地域に対しても一切の妥協を許さなかったため、政権支持者からも反対の声が上がり、さらには国内の政情不安を察して政権打倒を目論むアイユーブ・ハーンとその支持者がヘラートに集結しました。

Ayub Khan (Emir of Afghanistan) - Wikipedia

 アブドゥッラフマーン・ハーンは、アイユーブ・ハーンの勢力が反乱を起こす前に先手を打ってヘラートを攻略、アイユーブ・ハーンをペルシャへ追い払い、また国内の反対派に容赦ない弾圧を加えました。また、当時アフガニスタン国内にいたシーア派信者のハザーラ人に対しても弾圧を加え、約6割が奴隷として売られるかインドやペルシャへの亡命を余儀なくされました。彼は、そういった一連の政策の徹底振りにより「鉄のアミール」と呼ばれました。彼の治世において断行された政策は、後のアフガニスタンの礎となっています。ちなみに、ハザーラ人は現在も迫害を受けており、例えばスンナ派系の過激派組織であるターリバーンはハザーラ人に対する数々のテロ攻撃を行い、国際的に大きな問題となっています。

 アブドゥッラフマーン・ハーンは、1901年10月1日に亡くなりました。アミールは、彼の長男のハビーブッラー・ハーンが継ぎました。

 

 このコイン(KM-544.1)の鑑定枚数は、PCGSでは2枚ありF、EFとなっています、NGCでは1枚あり、XF Detailsとなっています。私が所有している状態のコインであれば、フリマサイトで容易に見つけることができます。希少なコインではありませんが、同時期の他のイスラム系コインとはまた違ったユニークなデザインで、興味深いと思います。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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