コイン探求の旅 #136 『教皇領 1/2バイオッコ銅貨 ピウス9世』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『教皇領 1/2バイオッコ銅貨 ピウス9世』です。

発行国  教皇領(バチカン、イタリア)
材質  カッパー
品位  ?
発行年  1851年
発行枚数  4,001,000
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にピウス9世の紋章が描かれ、その周囲にラテン語で「ピウス9世 偉大な教皇 5(教皇就任から5年目の意味)」と刻まれています。裏面には上から額面の「1/2」、単位の「バイオッコ」、発行年の「1851」、ミントマークの「R(ローマ)」と刻まれています。

 このコインは、第255代ローマ教皇のピウス9世の治世において発行されたコインです。ピウス9世の在位期間は、1846年6月16日~1878年2月7日のおよそ32年間でした。

ピウス9世 (ローマ教皇) - Wikipedia

 ジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェッレッティ(後のピウス9世)は、1792年5月13日、教皇領のセニガッリアで生まれました。生まれた日に洗礼を受け、ジョヴァンニ・マリア・バッティスタ・ピエトロ・ペッレグリーノ・イシドロと名付けられました。彼は、ヴォルテッラとローマの神学校で教育を受け、1823年から2年間、宣教団の監査官として南米に渡りました。1831年にスポレートの大司教に任命され、1840年には枢機卿に選出されました。1846年6月1日にグレゴリウス16世の死去を受けて行われたコンクラーヴェは、保守派と改革派の激しいせめぎあいとなりましたが、最終的にはフェレッティが選ばれ、ピウス9世を名乗りました。彼は、1700年以降で最年少となる54歳での選出となりました。

グレゴリウス16世 (ローマ教皇) - Wikipedia

 ピウス9世は、教皇領の侵犯に断固反対し、イタリア地域に大きな影響力を有していたオーストリア帝国の指導者メッテルニヒらの脅しにも屈することなく教皇領の独立を主張するなど、毅然とした姿勢を取りました。イタリアの民族主義者らはイタリア地域のオーストリアからの解放と、イタリア統一を望んでいたため、教皇の態度は彼らから大いに歓迎されました。彼らはピウス9世を「覚醒教皇」と呼び、イタリア統一の象徴として支持しました。

クレメンス・フォン・メッテルニヒ - Wikipedia

 1848年は、1848年革命と呼ばれる自由主義革命運動が欧州各国で発生しました。ミラノでは、ミラノの5日間と呼ばれる民衆反乱が発生し、ヴェネツィアでは自由主義者のダニエーレ・マニンを長とする臨時政府が樹立されました。ミラノの自由主義者らはサルデーニャ王国国王のカルロ・アルベルトに介入を要請、これに応える形で同年3月23日にオーストリアに宣戦布告しました。イタリア統一を望む勢力は教皇軍の援軍を期待しましたが、ピウス9世はカトリック教国であるオーストリアとの摩擦を嫌い、同年4月に戦争はカトリック分裂の恐れがあるとの理由で教会は一切戦争に介入しないという教書を発しました。サルデーニャ軍の戦局は不利に進み、1849年3月のノヴァーラの戦いで惨敗、権威を失墜したカルロ・アルベルトは同日に退位しポルトガルへ亡命しました。サルデーニャの国王には、カルロ・アルベルトの子であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位しました。

ミラノの5日間 - Wikipedia

 1848年革命の影響は教皇領にも波及し、立憲政治を求める市民階級が革命運動を広めると、教皇自身は自由主義に次第に距離を置くようになりました。1848年3月にローマ新憲法を発布しましたが、その内容は教会側の優位を認めた保守的なもので、自由主義者らは失望しました。その後教皇の信頼の厚い首相ペッレグリーノ・ロッシが暗殺されて暴動が起こり、教皇自らも市民軍によって軟禁されました。1848年11月24日、ピウス9世は政情不安定のローマを離れ、密かに両シチリア王国のガエータへ逃れました。教皇領にはローマ共和国が成立、これを警戒した教皇ローマ共和国に破門を宣言しました。ローマ共和国は、その後フランス軍の攻撃を受けて1849年4月に降伏し滅亡、フランス軍によってローマの秩序が回復されると、ピウス9世は1850年に帰還しました。

フェルディナンド・ブッチ作「コルヌーダの戦い」 - Wikipedia

 1849年に発足したサルデーニャ王国のダゼーリョ内閣は、教会が保持する特権の廃止を目論み、シッカルディ法案を議会に提出しました。ピウス9世は法案を可決しないようサルデーニャ王国に圧力をかけましたが、法案は議会で可決されました。1850年に死去した農商務大臣を務めていたピエトロ・ディ・サンタローザは、この法案をめぐり教会と対立していたため、臨終の際に秘跡(終油礼)の施しを聖職者から拒否されるという不遇の最期となりました。サンタローザの友人であり、また法案の起草者と言われている議員のカミッロ・カヴールは、秘跡の施しを拒んだ神父の元へ行き口汚く罵って口論になりました。後にカヴールは、『イル=リソルジメント』紙上にサンタローザへの秘跡の施しを拒否した教会を非難する言説を発表しました。カミッロ・カヴールは、1852年11月にサルデーニャ王国の首相に任命され、サルデーニャ王国とピウス9世の対立は激化していくことになりました。

カミッロ・カヴール - Wikipedia

 カヴール内閣は、前内閣の国内のカトリック教会の特権を廃止する政策を引き継ぎ、修道院を廃止してその財産を国有化し、国家財源に充てるというウルバーノ・ラッタッツィが起草した修道院法案を議会に提出しました。ピウス9世は、修道院法案に関わる者全てを公会議で定められた規則通りに破門すると脅迫しました。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世もこの法案に反対し、カヴールとラッタッツィに妥協を求めましたがこれに応じず、内閣総辞職を決定してカヴール内閣は崩壊しました。カヴールは、1855年5月4日にふたたび首相に任命され、修正修道院法案を議会に提出、法案は5月22日に上院でかろうじて可決され成立しました。ピウス9世は宣言していた通り、同年7月26日に法案成立に関与した国王、首相カヴールとその閣僚ら、賛成した議員らを全員破門しました。

ウルバーノ・ラッタッツィ - Wikipedia

 1861年イタリア王国が成立する過程で、サルデーニャ王国ジュゼッペ・ガリバルディ両シチリア王国の征服のために教皇領の東半分に当たるマルケとウンブリアを1860年9月に占領しました。1861年3月18日にピウス9世は、サルデーニャ軍の派兵で教皇領の一部を奪いイタリア王国成立に関与した全ての人物を破門しました。カヴールは教皇庁を翻意させるためジャコモ・アントネッリ枢機卿を買収しようと画策しましたが失敗しました。

ジュゼッペ・ガリバルディ - Wikipedia

 1861年3月25日、カヴールはイタリア王国の首都はローマに置かれるべきであると議会で演説しました。ローマは教皇領の一部でしたが、カヴールはローマ教皇教皇庁)に、宗教活動の自由を保障する代わりに武装解除と世俗権力を放棄するよう促し、フランス軍に代わってイタリア軍教皇の番兵になると説得しました。ピウス9世はこれに反発し、教皇領を包囲するように成立したイタリア王国を「カトリックに対する無限の悪と誤りを生み出す存在」と呼んで非難しました。ピウス9世は、ガリバルディによって征服された両シチリア王国のフランチェスコ2世国王夫妻の亡命を受け入れ、南イタリアで山賊行為を働いていたブリガンテに武器・弾薬・衣類・食料の提供を行い、教皇領の国境地帯に位置する教会施設をブリガンテに供与するといった行動を取り、対立を深めていきました。

教皇ピウス9世に謁見するフランチェスコ2世(教皇の左隣の燕尾服の人物) - Wikipedia

 1861年6月、カヴールはマラリアとみられる症状を発症し急死しました。カヴールはキリスト教徒として死ぬことを望みましたが、ピウス9世から破門されていたため、知人のジャコモ神父に依頼し6月5日の朝に秘跡(ゆるしの秘跡)を受けました。ピウス9世は、破門された者に秘跡を施したジャコモ神父に対し、聖職者としての地位を剥奪しました(次のローマ教皇レオ13世の代で解除)。教皇庁の公的機関誌『チヴィルタ・カットーリカ』は、カヴールの死を「天上からの復讐」だと報じました。

サンテナ・カヴール城にあるカヴールの墓 - Wikipedia

 1870年に普仏戦争が勃発、フランス軍が撤退して無防備となったローマは、イタリア軍によって占領されました。翌1871年教皇領は廃止され、ローマが正式にイタリア王国の首都となると、ピウス9世は自らが「バチカンの囚人」であると宣言し、イタリア政府関係者を破門に処し、カトリック信者がイタリア議会議員選挙に投票することを禁じる教令「ノン・エクスペディト」の発令や、王族の冠婚葬祭の招待の黙殺などの対抗処置を行い、イタリア政府とバチカンは完全に断交状態に陥りました。教皇領の失陥以降、ピウス9世は生涯バチカンから一歩も外へ出ることはありませんでしたが、カトリックの最高指導者としての影響力を存分に行使し続けました。1871年にはカトリック抑圧を行ったドイツ帝国の宰相ビスマルクとの間で文化闘争を引き起こしました。ピウス9世はビスマルクに全く怯むことなく圧力を加え続け、カトリックの教勢守護のための活動を最後まで精力的に続けました。

対立する帝国宰相ビスマルクと教皇ピウス9世を描いた風刺画(1875年) - Wikipedia

 ピウス9世は、1878年2月7日に教皇宮殿にて帰天しました。彼の最期の言葉は「私が愛してやまない教会を守れ」だったと言われています。在位期間は31年7か月におよび、史実で明らかな教皇たちの中では最長の在位期間を記録しました。遺骸は遺言により、ローマ帝国期に殉教した聖人ラウレンティウスを祀るサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂に埋葬されました。自らを殉教者になぞらえたもので、イタリア統一政府への抗議の姿勢であったとされています。

ピウス9世 (ローマ教皇) - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数(1851年発行)は、PCGSでは3枚あり、Top PopはMS64RBとなります。NGCでは4枚あり、Top PopはPF63BN、PF66RB、PF65RDとなります。このコインは、1850年発行のボローニャミントが最も発行枚数が少なく、希少であるようです。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #135 『スウェーデン王国 10クローナ銀貨 グスタフ6世アドルフ生誕90周年記念』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『スウェーデン王国 10クローナ銀貨 グスタフ6世アドルフ生誕90周年記念』です。

発行国  スウェーデン王国
材質  シルバー
品位  0.83
発行年  1972年
発行枚数  2,000,000
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にグスタフ6世アドルフの肖像が描かれ、その周囲にスウェーデン語で「グスタフ6世アドルフ スウェーデン国王」、右下にエングレイバーのイニシャル「Lh」が刻まれています。裏面には中央にグスタフ6世アドルフの際が描かれ、その周囲にスウェーデン語で「義務はすべてに優先する 1882 11·XI 1972」、下に額面の「10クローナ」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、レオ・ホルムグレンが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=1221

 このコインは、スウェーデン王国ベルナドッテ王朝)の第6代国王グスタフ6世アドルフの治世において発行されたコインで、グスタフ6世アドルフ生誕90周年を記念して発行されたコインです。グスタフ6世アドルフについては、#134で解説しましたので、今回は割愛します。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 

 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは3枚あり、Top PopはMS63となります。NGCでは見当たりませんでした。このコインは、発行枚数は200万枚と多いのですが、何故か鑑定枚数は非常に少ないです。記念コインなので状態が良いコインは多数ありそうなのですが、理由が良く分かりません。Top PopのMS63は、それなりに高値が付くかもしれませんね。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #134 『スウェーデン王国 2クローナ銀貨 グスタフ6世アドルフ』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『スウェーデン王国 2クローナ銀貨 グスタフ6世アドルフ』です。

発行国  スウェーデン王国
材質  シルバー
品位  0.4
発行年  1954年
発行枚数  2,300,835
鑑定会社  未鑑定
グレード  AU~MS相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にグスタフ6世アドルフの肖像が描かれ、その周囲にスウェーデン語で「グスタフ6世アドルフ スウェーデン国王」、右下にエングレイバーのイニシャル「Ö」、下に造幣局長のイニシャル「U」が刻まれています。裏面には中央に3王冠と紋章が描かれ、その周囲にスウェーデン語で「義務はすべてに優先する」、上に発行年の「1954」、左右に額面の「2クローナ」と刻まれています。

 このコインの表面のデザインは、エドヴィン・オールストロムが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=2455

 このコインは、スウェーデン王国ベルナドッテ王朝)の第6代国王グスタフ6世アドルフの治世において発行されたコインです。グスタフ6世アドルフの在位期間は、1950年10月29日~1973年9月15日のおよそ23年間でした。

グスタフ6世アドルフ (スウェーデン王) - Wikipedia

 グスタフ・アドルフは、1882年11月11日に皇太子グスタフ(後のグスタフ5世)とバーデン公女ヴィクトリアの長男として生まれました。彼は、1907年12月8日に祖父のオスカル2世が亡くなったことにより、スウェーデンの皇太子となりました。1950年10月29日、グスタフ・アドルフ皇太子は父グスタフ5世の崩御に伴い、68歳という高齢で国王に即位しました。当時、彼は世界最高齢の王位継承者でした(この記録は2016年11月2日に甥のチャールズ皇太子によって破られました)。

 グスタフ6世アドルフの治世において、1809年の憲法に代わって時代に合った新たな統治機構の策定作業が進められました。その改革の中には、君主制の廃止、あるいは少なくとも旧憲法の「国王のみが国を統治する」という規定をいくらか緩和することが含まれていました。

 グスタフ6世アドルフは優れた人格であったため、スウェーデン国民の間で人気を博し、ひいてはこの人気が王政維持を支持する強い世論につながりました。グスタフ6世アドルフは、建築学や植物学など幅広い分野に専門知識と関心を持ち、気さくで謙虚な性格と意図的に華美な振る舞いを避けていたため、尊敬を集めました。

グスタフ6世アドルフとルイーズ王妃 - Wikipedia

 グスタフ6世アドルフは、8万冊もの蔵書を誇る膨大な私蔵書を所有していましたが、さらに驚くべきことに彼は蔵書の大部分を実際に読破していました。彼は中国美術と東アジア史に関する専門書に関心を寄せていました。グスタフ6世アドルフは生涯を通じて文明史に特に関心を持ち、数々の考古学調査に参加しました。彼のもう一つの大きな関心は植物学で、特に花と園芸に力を入れていました。彼はシャクナゲの専門家と称され、ソフィエロ城(王の夏の離宮)には、高く評価されているシャクナゲのコレクションを創り上げました。

ソフィエロ城のシャクナゲ園【フォートラベル】

 グスタフ6世アドルフが自ら政治権力を行使した最も顕著な事例は、1957年の政府危機の時でした。この危機は、年金改革をめぐる政府内の分裂に端を発していました。この分裂により、農民連盟は社会民主労働党との連立政権を離脱しました。グスタフ6世アドルフは、中道右派連合政権の樹立を試みましたが、農民連盟の党首は右派政権への参加を拒否し、社会民主労働党の少数派政権を支持しました。最終的にターゲ・エルランデル首相のもと少数単独政権を樹立、グスタフ6世アドルフはこれを承認しました。彼の対応は、議会の観点から見て正しかったと評価されました。

ターゲ・エルランデル - Wikipedia

 1973年9月15日、グスタフ6世アドルフは健康状態の悪化と肺炎のため、ソフィエロ城に近いスコーネ地方ヘルシンボリの旧病院において90歳で亡くなりました。王位は、長男である故グスタフ・アドルフ公子の息子で27歳の孫カール16世グスタフが継ぎました。グスタフ6世アドルフは死の直前、王室に残されていた政治的権力を剥奪する新憲法を承認しました。この新憲法はグスタフ6世アドルフの死から2年後の1975年に発効し、カール16世グスタフ儀礼的な象徴的存在となりました。

カール16世グスタフ - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数(1941年発行)は、PCGSでは3枚あり、Top PopはMS63となります。NGCでは見当たりませんでした。このコインは1952~1966年の間発行されており、初年度の1952年の発行枚数が315,325枚と最も少ない枚数となっています。1952年のMS66のコインは1枚しかないようなので、高値が付くかもしれません。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #133 『スウェーデン王国 2クローナ銀貨 デラウェア州ニュー・スウェーデン入植300周年記念』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『スウェーデン王国 2クローナ銀貨 デラウェア州ニュー・スウェーデン入植300周年記念』です。

発行国  スウェーデン王国
材質  シルバー
品位  0.8
発行年  1938年
発行枚数  508,815
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にグスタフ5世の肖像とその下にミントマーク(王立造幣局、クングスホルメン)が描かれ、その周囲にスウェーデン語で[グスタフ5世」と刻まれ、また肖像の右下にエングレイバーのイニシャル「EL」が刻まれています。裏面には中央に帆走するカルマル・ニッケル号と王冠、その左下にミントマーク(王立造幣局、クングスホルメン)が描かれ、その周囲にラテン語で「ニュー・スウェーデン スウェーデンの記憶」、左右に年号「1638 1938」、右下に造幣局長のイニシャル「G」、下に額面の「2クローナ」が刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、エリック・リンドバーグ(アドルフ・リンドバーグの息子)が手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=173

 このコインは、スウェーデン王国ベルナドッテ王朝)の第5代国王グスタフ5世の治世において発行されたコインで、デラウェア州ニュー・スウェーデン入植300周年を記念して発行されたコインです。グスタフ5世については、#131で解説しましたので、今回は割愛します。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 今回は、コイン裏面にデザインされているカルマル・ニッケル号について書いていきます。

カルマル・ニッケル号の絵画、1922年ヤコブ・ヘッグ作 - Wikipedia

 カルマル・ニッケル号は、1625年頃に建造された船で、ピンネースと呼ばれる構造で建造されました。当初はスロイテル(オランダ語で「鍵」の意)と命名されましたが、他の船と区別するために、カルマル市にちなんでカルマル・ニッケル号と名付けられました。カルマル市は、1629年にこの船を国営貿易会社スケップスコンパニートに寄付し、後にスウェーデン海軍が買い取りました。スウェーデンがペートル・ミニュイの指揮の下、新世界に貿易植民地を設立することを決定した際、カルマル・ニッケル号がその任に就くことが決定されました。また、小型船フォーゲル・グリップ号(グリフィン・バード号)がその航海に同行することとなりました。

 ペートル・ミニュイ- Wikipedia

 1637年12月、ヤン・ヒンドリクセン・ファン・デル・ワーテルの指揮の下ヨーテボリを出航しましたが、北海で激しい嵐に遭遇したため修理が必要となり、一旦オランダへ戻らざるを得なくりました。1638年元旦に再度出発し、1638年3月に無事北アメリカに到着しました。彼らは現在のウィルミントン市に砦を築き、クリスティーナ砦と名付けました。

クリスティーナ砦 - Wikipedia

 2回目の航海は、1640年2月7日にスウェーデンを出発し同年4月17日にクリスティーナ砦に到着、ニュー・スウェーデンに新たな入植者がもたらされました。その一人が、ニュー・スウェーデン初のルター派牧師、レオラス・トルキルスでした。カルマル・ニッケル号はスウェーデンと北アメリカ間の4度の航海を成功させ、これは他のどの植民地船にもなしえなかった記録でした。

ニュー・スウェーデン植民地 1638-1655 – Wikipedia

 カルマル・ニッケル号は、スウェーデンとニュー・スウェーデン間の植民地航海の合間に輸送船や連絡船としても利用されました。1651年にスウェーデン海軍の任務から外れ、ネーデルラントの商人に売却されました。第一次英蘭戦争勃発時には、ディードリク・ヴェイヒ提督の指揮下で漁船の護衛任務で運用されました。1652年7月12日、スコットランド沖でイングランド海軍との戦闘中に撃沈されました。

第一次英蘭戦争の最後の戦闘、1653年8月10日のスヘフェニンゲンの海戦。Jan Abrahamsz Beerstraaten画 - Wikipedia

 1986年、デラウェア州ウィルミントンの市民団体が、州の税金と企業や個人からの寄付を主たる財源として、カルマル・ニッケル号のレプリカの復元を目的とした財団を設立しました。この新しい船は、船舶工学者のトーマス・C・ギルマーとアイヴァー・フランツェンが設計し、クリスティーナ砦に程近いウィルミントンの造船所で建造されました。この復元されたカルマル・ニッケル号は1997年9月28日に進水し、1998年5月9日から稼働を始めました。2016年からは、デラウェア州の公式なトールシップとして運用されています。「デラウェア州の海の大使として、州内でも多くの寄港地でも、乗客や見物客への知名度向上に寄与する」という使命のため、州のシンボルとして採用されました。

チェサピーク湾を航行するカルマル・ニッケル号、2008年 - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは84枚あり、Top PopはMS67、MS66PLとなります。NGCは見当たりませんでした。このコインはPCGS鑑定済みのMS66PLが1枚だけ存在しており、かなりの高値が付くのではないかと思います。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #132 『スウェーデン王国 5クローナ銀貨 リクスダーゲン500周年記念』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『スウェーデン王国 5クローナ銀貨 リクスダーゲン500周年記念』です。

発行国  スウェーデン王国
材質  シルバー
品位  0.9
発行年  1935年
発行枚数  663,819
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にグスタフ5世の肖像とその下にミントマーク(王立造幣局、クングスホルメン)が描かれ、その周囲にスウェーデン語で[スウェーデン国王グスタフ5世」、「国民と共に祖国のために」と刻まれ、また肖像の右下に造幣局長のイニシャル「G」とエングレイバーのイニシャル「EL」が刻まれています。裏面には中央に3つの王冠を配した盾が描かれ、その上部に額面の「5」、左下と右下にスウェーデン語で「5オーレ」と刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、エリック・リンドバーグ(アドルフ・リンドバーグの息子)が手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=173

 このコインは、スウェーデン王国ベルナドッテ王朝)の第5代国王グスタフ5世の治世において発行されたコインで、リクスダーゲン設立500周年を記念して発行されたコインです。グスタフ5世については、#131で解説しましたので、今回は割愛します。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 リクスダーゲンとは、スウェーデン王国の議会であり最高意思決定機関の事を指します。1971年以来、リクスダーゲンは349名の議員を擁する一院制議会であり、議員は比例選挙で選出され、1994年以降は4年の任期となっています。リクスダーゲンの憲法上の権限は統治機構(レゲリングスフォルメン)に列挙されており、その内部の仕組みはリクスダーグ法で規定されています。リクスダーゲンの所在地は、ストックホルム中心部のヘルゲアンドスホルメン島の国会議事堂(リクスダーシュセート)、ストックホルムの旧市街ガムラスタンにあります。

国会議事堂、1905年以来リクスダーゲンの所在地 - Wikipedia

 リクスダーゲンの起源は、1435年にアルボガ市で開かれた会議に遡りますが、当初出席していたのは貴族、聖職者、市民の3つの身分のみであったと考えられています。この非公式な組織は、1527年にスウェーデン国王グスタフ1世ヴァーサによって改正され、4つの社会身分である貴族、聖職者、市民(商人など、都市で財産を所有する平民)、ヨーマンリー(自由保有農民)のすべての代表者が含まれるようになりました。この形態の州議会(シュテンデスタート)による代表制は、身分代表制が廃止され近代的な二院制議会が設立された1866年まで続きました。しかし、実質的には1917年にスウェーデンの政治制度に議会制原則が確立されるまで、近代的な意味での議会とはなりませんでした。

グスタフ1世 (スウェーデン王) - Wikipedia

 1866年6月22日、リクスダーゲンは二院制議会として再編することを決定し、第一院(フォルスタ・カンマレン)は155名の議員で構成され、第二院(アンドラ・カンマレン)は233名の議員で構成されました。第一院は郡および市議会議員によって間接的に選出され、第二院は普通選挙によって直接選出されました。

 1970年の総選挙による統治機構の改正により初めて一院制議会が成立し、議席数は350議席となりました。続く1973年の総選挙では、一院制議会であるリクスダーゲンが成立しましたが、政権はわずか175議席の支持しか得られず、野党も175議席という互角の勢力を結集することができました。その結果、最終決定はくじ引きに委ねられることとなりました。1976年以降、こうした不安定な状況の再発を防ぐためリクスダーゲンの議席数は349議席に削減されました。

リクスダーゲンの本会議場 - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは52枚あり、Top PopはMS66となります。NGCは見当たりませんでした。このコインはプルーフが存在しないようなので、MS66のコインが最も希少であるようです。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #131 『スウェーデン王国 5オーレ青銅貨 グスタフ5世』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『スウェーデン王国 5オーレ青銅貨 グスタフ5世』です。

発行国  スウェーデン王国
材質  ブロンズ
品位  ?
発行年  1941年
発行枚数  2,054,540
鑑定会社  未鑑定
グレード  AU~MS相当
サイズ

 このコインは、表面には中央に戴冠したグスタフ5世のモノグラムが描かれ、その周囲にスウェーデン語で「国民と共に祖国のために」、左右に発行年の「1942」が刻まれています。裏面には中央に3つの王冠と、その下にストックホルム造幣局のミントマークが描かれ、その上部に額面の「5」、左下と右下にスウェーデン語で「5オーレ」と刻まれています。

 このコインは、スウェーデン王国ベルナドッテ王朝)の第5代国王グスタフ5世の治世において発行されたコインです。グスタフ5世の在位期間は、1907年12月8日~1950年10月29日のおよそ43年間でした。

グスタフ5世 (スウェーデン王) - Wikipedia

 グスタフ5世は、1858年6月16日にドロットニングホルム宮殿でオスカル王子とナッサウ公女ソフィアの長男として生まれました。父は国王オスカル1世の次男で、国王の長男であるカール皇太子には後継者がいなかったため、生まれたばかりの王子が将来スウェーデン王位を継承するであろうと予想されていました。幼少期の彼と3人の弟は、ベスコフスカ学校で教育を受けました。

1865年、グスタフ王子(左端)と両親、兄弟たち- Wikipedia

 1872年9月18日、叔父のカール15世が崩御し、グスタフの父がオスカル2世として即位しました。父の即位に伴い、グスタフは14歳でスウェーデンノルウェーの皇太子となりました。新国王夫妻と子供たちは広大なストックホルム宮殿に移り、皇太子は王位継承者としての教育を宮殿で受けることになったため、ベスコフスカ学校での教育を中断しました。1881年9月20日、皇太子はドイツのカールスルーエで、バーデン大公フリードリヒ1世とプロイセン王女ルイーゼの一人娘であるバーデン公女ヴィクトリアと結婚しました。

1881年のグスタフとヴィクトリアの結婚記念メダル - Wikipedia

 1907年12月8日、オスカル2世が崩御し、49歳のグスタフはベルナドッテ家第5代君主として父の跡を継ぎ、スウェーデン国王に即位しました。即位当時、彼は文書上では国王を国家元首の両方の長という独裁者の立場ではありましたが、オスカル2世の治世において議会の多数決で選出された政府を受け入れざるを得なくなり、グスタフ5世も同様に議会制を受け入れる姿勢を見せました。1917年の選挙では自由党社会民主党が大幅な議席増を遂げ、両党で決定的な多数派を形成しましたが、グスタフ5世はヨハン・ヴィーデンを首班とする保守党政府の任命を試みました。しかしヴィーデンは連立政権に必要な支持を集められなかったため、グスタフ5世はやむなく自由党出身者のニルス・エーデンを首班とする自由党社会民主党連立政権を発足させました。エーデン政権は直ちに国王の政治権限の大半を掌握し、数多くの改革を実施しました。グスタフ5世は、自らの政治的権限の縮小を受け入れ、生涯を通じて限定的立憲君主として統治を続けることになりました。

ニルス・エーデン - Wikipedia

 第一次世界大戦において、グスタフ5世はドイツに同情的であるとみなされていました。彼の政治的な姿勢は、故郷であるドイツに強い愛着を抱いていた妻の影響を強く受けていました。1914年12月18日、グスタフ5世はスカンジナビア諸国の団結を示すため、各国国王をマルメに招待して三国国王会議を開きました。この会合は、ドイツがスウェーデンを中央同盟側につけて戦争に巻き込もうとしているという疑惑を払拭することも目的の一つでした。

ブランド洋食器専門店のアイン / ロイヤルコペンハーゲン・メモリアル 1915マルメ・北欧三国王会談記念

 グスタフ5世は事実上政治的権力を剥奪されていましたが、影響力が全くなかった訳ではありませんでした。二つの大戦においてスウェーデンは中立の立場を維持していましたが、第二次世界大戦開戦直前の1938年に駐スウェーデンドイツ大使を自ら呼び出し、ズデーテン地方の放棄を拒否するチェコスロバキアヒトラーが攻撃すれば、世界大戦が勃発しドイツはほぼ確実に敗北するだろうと警告しました。その一方で、1941年6月にナチス・ドイツソ連に侵攻した際は、「ボルシェビキの疫病」への対応に感謝し、「既に達成された勝利」を祝福する内容の親書をヒトラーに送ろうとしました。しかしこの親書は、首相のペール・アルビン・ハンソンによって阻止されました。

ペール・アルビン・ハンソン - Wikipedia

 グスタフ5世は、国王であると同時に熱心なテニスプレイヤーでもあり、「ミスターG」という偽名を使って活動していました。彼は、1876年の英国訪問中にテニスを習得し、帰国後にスウェーデン初のテニスクラブを設立しました。また、1936年にはキングス・クラブを設立しました。彼はテニスプレイヤーとして、またテニスの推進者として、1980年に国際テニス殿堂入りを果たしました。第二次世界大戦中は、フランスのデビスカップのスターであり、1942年11月にゲシュタポに逮捕されたジャン・ボロトラの待遇改善のために仲介を行い、またユダヤ人との同性愛関係の容疑でナチス政府に投獄されていた、ボロトラの個人トレーナーであり友人でもあるドイツのゴットフリート・フォン・クラム男爵のためにも仲介を行いました。

レアル・クラブ・デ・ラ・プエルタ・デ・イエロでテニスをするグスタフ5世、1927年 - Wikipedia

 1950年代になると、レストラン経営者のクルト・ハイビーが長年グスタフ5世と同性愛関係にあり。17万クローナ(日本円で3,000万円以上)という多額の口止め料を受け取っていたことが発覚、ハイビーに対する物議を醸す数々の裁判と有罪判決が下され、グスタフ5世の同性愛疑惑をめぐる大きな論争が巻き起こりました。2021年、ハイビー事件をめぐる疑惑はスウェーデン国営テレビのミニシリーズ「En Kunglig Affär(王室の秘密)」のタイトルで、リサ・ジェームズ・ラーソン監督、ベンクト・ブラスケレッド脚本でドラマ化されました。

https://www.imdb.com/title/tt13130964/mediaviewer/rm4260490241/

 グスタフ5世は、1950年10月29日にストックホルムで気管支拡張症を伴う急性気管支炎のため亡くなりました。王位は、67歳の息子グスタフがグスタフ6世アドルフとして継承しました。

グスタフ6世アドルフ (スウェーデン王) - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数(1941年発行)は、PCGS、NGCともに見当たりませんでした。このコインは1909~1950年の長期間発行され、発行枚数も非常に多く、手替わりも多数存在するようです。1910年発行のコインが30,630枚と最も少なく、希少であるようです。青銅貨という事もありますので、さほど高額ではないかもしれませんね。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #130 『スウェーデン王国 2クローナ銀貨 オスカル2世国王とソフィア妃の結婚50周年記念』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『スウェーデン王国 2クローナ銀貨 オスカル2世国王とソフィア妃の結婚50周年記念』です。

発行国  スウェーデン王国
材質  シルバー
品位  0.800
発行年  1907年
発行枚数  250,700
鑑定会社  未鑑定
グレード  XF~AU相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にオスカル2世とソフィア王妃の肖像が描かれ、その周囲にスウェーデン語で「オスカル2世 ソフィア王妃」と刻まれています。裏面には中央にセラフィムの鎖に囲まれた王冠を戴いた国章が描かれ、その左右にスウェーデン語で「6月6日 1857-1907」、下に額面の[2クローナ」と造幣局長のイニシャル「EB」が刻まれています。

 このコインの両面のデザインは、アドルフ・リンドバーグが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=402

 このコインは、スウェーデン王国の第5代国王オスカル2世の治世において発行されたコインで、オスカル2世国王とソフィア妃の結婚50周年を記念して発行されたコインです。オスカル2世については、#127で解説しましたので、今回は割愛します。

rangalhu-coin.hatenablog.jp

 今回は、ソフィア王妃について書いていきます。

ナッサウ公女ソフィア - ヴェステルイェートランド博物館

 ゾフィア・フォン・ナッサウは、1836年7月9日にナッサウ公国のヴィースバーデンにあるビーブリッヒのビーブリッヒ城で生まれました。ソフィアは、3歳の時に父を亡くし、20歳の時に母を亡くしました。ソフィアの教育は、歴史、語学、そして音楽、特にピアノ演奏に重点が置かれていました。10代の頃にサンクトペテルブルクを訪れた際、アントン・ルビンシテインにピアノを習いました。ソフィアは、1856年の夏に母が亡くなった後、異母姉でヴィート公爵ヘルマン・フォン・ヴィートと結婚したマリーのもとに滞在しました。

マリー・フォン・ナッサウ - Wikipedia

  ソフィアは、ノイヴィート近郊のモンレポス城で、当時エステルイェートランド公爵であったオスカル王子と出会いました。二人は1856年9月26日に婚約し、1857年6月6日にビーブリッヒ城で結婚しました。2週間後、新婚夫婦はスウェーデンに到着し、「いつまでも終わることのない歓喜」に迎えられました。ソフィアとオスカルは、皇太子宮殿に住まうことになりました。

皇太子宮殿 – Wikipedia

 ソフィアは、自由主義カトリックに関しては、スウェーデン宮廷内で主流であったフランス文化から距離を置いていました。摂政であった夫オスカル2世が後にドイツに接近したのは、ソフィアの考え方に影響されたものと考えられています。

 1858年6月16日、ソフィアとオスカルの間に第一子となるグスタフ王子が誕生しました。翌年にはオスカル、1861年の冬にはカールが誕生しました。4年後の1865年にはオイゲンが誕生しました。

ソフィアと家族の写真 – Wikipedia

 1872年9月、カール15世が崩御し、オスカル2世がスウェーデン国王に即位しました。1873年5月12日、ソフィアはストックホルムにおいてスウェーデンノルウェーの女王に即位しました。ソフィアは、695個のダイヤモンドで飾られた1751年製のロヴィーサ・ウルリカの王冠を戴冠しました。彼女は銀のモアレと銀のサテンで作られた戴冠式用のドレスを着用しました。戴冠式当時、彼女は病気のため式典には馬車で移動しました。

ストックホルム宮殿の宝物庫に収蔵されている、1751年のスウェーデン女王の王冠 – Wikipedia

 夫がデンマークの女優マグダ・フォン・ドルケと交際し始めると、1874年にソフィアは健康上の理由によりドイツへ向かうため国を離れました。公式には王妃の旅行は療養のためでしたが、夫とマグダの関係がきっかけだったとされています。マグダはその後コペンハーゲンでブラシ製造業者のヨハン・ボッセと結婚して舞台から引退、1880年代にはソフィアと夫との関係は改善しました。

マグダ・フォン・ドルケ – Wikipedia

 ソフィアの健康状態は年々悪化していき、貧血、様々な痙攣、脚の痛み、心臓疾患に悩まされました。1887年に卵巣摘出手術を受け、手術は成功しましたが、その後は歩行が非常に困難になりました。こうした長期の療養期間中、彼女は多くの読書に励みました。自身の病と深い信仰心から、彼女はソフィア・ヘメットの設立や看護師の育成など、数々の慈善活動に尽力しました。

ソフィアヘメットの正面玄関、2006年5月 – Wikipedia

 1907年に夫オスカル世が亡くなった後、ソフィアは公務から退きました。1913年12月3日、孫娘でオスカルの娘であるマリアを含む15人のソフィア修道女の入会式が行われた際に姿を見せたのが、最後の公務となりました。1913年12月30日、ソフィアはウルリクスダール城で大勢の家族に見守られながら亡くなりました。葬儀は1月8日にストル教会で執り行われ、リッダーホルム教会に埋葬されました。

東から見たリッダーホルム教会– Wikipedia


 このコインの鑑定枚数は、PCGSでは112枚あり、Top PopはMS66+となります。NGCはよく分からず、1枚もないのかもしれません(1907年のEB4枚が該当?)。プルーフは存在しないようなので、Top PopはMS66+の2枚が最も希少価値が高いコインとなっているようです。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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