コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『フランス帝国(第二帝政) 5フラン銀貨 ナポレオン3世』です。

| 発行国 |
フランス帝国(第二帝政) |
| 材質 |
シルバー |
| 品位 |
0.900 |
| 発行年 |
1868年 |
| 発行枚数 |
11,390,447 |
| 鑑定会社 |
未鑑定 |
| グレード |
VF~XF相当 |
| サイズ |

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このコインは、表面には中央に月桂冠を被ったナポレオン3世の肖像が描かれ、その周囲にフランス語で「ナポレオン3世 皇帝」、右下に「BB(ストラスブールミントを示す)」、下に「バレ(エングレイバーのデジレ=アルベール・バレのこと)」と刻まれています。裏面には中央に皇帝の紋章である雷霆(雷の束)をつかむ鷲、レジオン・ドヌール勲章の頸飾、帝冠、王笏を配した帝国紋章が描かれ、外周上部にフランス語で「フランス帝国」、外周株に額面の「5フラン」と西暦の発行年「1868」と刻まれています。
このコインの両面のデザインは、デジレ=アルベール・バレが手掛けています。このコインの他にも、以下のようなコインのデザインを手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=52
このコインは、フランス帝国(第二帝政)の皇帝ナポレオン3世の治世において発行されたコインです。ナポレオン3世の在位期間は1852年12月2日~1870年9月4日のおよそ18年間でした。今回は、ナポレオン3世について解説します。

ナポレオン3世 - Wikipedia
フランス共和国(第二共和政)については、#229で解説しましたので、そちらを参照してください。
rangalhu-coin.hatenablog.jp
Ⅰ.生誕とボナパルト家の亡命
ナポレオン3世は1808年4月20日、フランスのパリで生まれました。本名はシャルル=ルイ・ナポレオン・ボナパルトといいます。父はナポレオン1世の弟であり、ナポレオンによってオランダ王に任じられたルイ・ボナパルト、母はナポレオン1世の最初の妻ジョゼフィーヌの娘であるオルタンス・ド・ボアルネでした。したがってルイ=ナポレオンは、父方からボナパルト家、母方からボアルネ家につながる人物でした。
rangalhu-coin.hatenablog.jp
ナポレオン1世は1804年に皇帝となり、フランス第一帝政を築きました。ルイ=ナポレオンが生まれたころ、ボナパルト家はヨーロッパの各地に王や公として配置され、フランス帝国の影響力は大きく広がっていました。しかし、この繁栄は長く続きませんでした。1812年のロシア遠征失敗以後、ナポレオン1世は連合国軍に敗れ、1814年に退位します。さらに1815年の百日天下とワーテルローの戦いでの敗北を経て、ナポレオン1世はセントヘレナ島へ送られました。
この結果、ボナパルト家の人々はフランスから追放され、ルイ=ナポレオンも幼少期から亡命生活を送ることになりました。彼は主にスイスで育ち、アーレンベルク城を拠点としました。フランスの皇帝一族でありながら、祖国を離れて生活したことは、彼の政治的な人格形成に大きな影響を与えました。彼は少年時代から、ナポレオン1世の栄光、フランス国家の偉大さ、帝政崩壊の屈辱を身近な記憶として受け継ぎました。
母オルタンスは、息子にナポレオン家の名声と使命を強く意識させた人物でした。彼女はナポレオン1世の義理の娘として宮廷で暮らした経験を持ち、帝政の伝統を守ろうとしていました。ルイ=ナポレオンは、単に亡命貴族として育ったのではなく、「いつかボナパルト家がフランスで役割を果たす」という意識の中で成長しました。

オルタンス・ド・ボアルネ - Wikipedia
Ⅱ.青年期とイタリア民族運動への関心
ルイ=ナポレオンはスイスで教育を受け、軍事学、歴史、語学、政治思想に触れました。彼はフランス語だけでなく、ドイツ語、イタリア語、英語などにも親しみ、ヨーロッパ各地の社会と政治を観察しました。王位継承者として整えられた教育ではなく、亡命者としての不安定な環境で育ったため、彼の青年期には実践的で国際的な性格がありました。
青年時代のルイ=ナポレオンは、イタリアの民族運動とも接点を持ちました。1820年代から1830年代にかけて、イタリアではオーストリア支配や地方君主の統治に反対し、統一と自由を求める運動が広がっていました。彼は弟ナポレオン=ルイとともに、カルボナリと呼ばれる秘密結社系の運動に関わり、イタリアの自由主義者・民族主義者に共感を示しました。

カルボナリの紋章と三色旗 - Wikipedia
1831年には、中部イタリアで反乱が起こりました。ルイ=ナポレオン兄弟もこの運動に関係し、ボローニャやロマーニャ地方の情勢にかかわりました。しかし運動はオーストリア軍の介入によって鎮圧されました。この過程で弟ナポレオン=ルイが病死し、ルイ=ナポレオンは危険な状況から逃れなければなりませんでした。
この経験は、彼にとって重要でした。のちに皇帝となったナポレオン3世が1859年にサルデーニャ王国を援助してオーストリアと戦い、イタリア統一の進展を助けた背景には、青年期に抱いたイタリア民族運動への共感がありました。ただし彼の対外政策は理想だけで動いたものではなく、フランスの国際的威信や自らの政権の安定とも深く結びついていました。
Ⅲ.ボナパルト派の形成とストラスブール事件
1830年にフランスで七月革命が起こり、シャルル10世が退位し、オルレアン家のルイ・フィリップが国王となると、フランスでは新しい立憲君主制である七月王政が始まりました。ボナパルト家に対する追放措置には徐々に緩みが見られ、ナポレオン1世の記憶も再び政治的意味を持つようになりました。
ルイ=ナポレオンは、ナポレオン1世の名を利用すれば、軍人、農民、旧帝政の支持者、国家の威信を求める人々を結びつけられると考えました。彼はボナパルト派の思想をまとめた文書を書き、帝政は単なる独裁ではなく、革命の原理と国家の秩序を両立させる制度であると主張しました。
1836年10月、彼はフランス東部のストラスブールで軍事蜂起を企てました。これは、駐屯軍を味方につけ、ナポレオン家の名のもとに政権を転覆させようとする計画でした。しかし、兵士たちはほとんど支持せず、計画は短時間で失敗しました。

1836年、ストラスブールでクーデターを企てるも失敗に終わったルイ・ナポレオン - Wikipedia
七月王政政府は、ルイ=ナポレオンを処刑したり長期間収監したりするのではなく、アメリカへ追放しました。彼を処刑すればナポレオンの名声を高める危険があり、また王族に近い人物として扱いにも政治的配慮が必要だったためです。ルイ=ナポレオンはアメリカへ渡りましたが、母オルタンスの病状悪化を知ると、まもなくヨーロッパへ戻りました。1837年に母が亡くなると、彼はその後イギリスに拠点を置きました。
ストラスブール事件は失敗でしたが、ルイ=ナポレオンにとっては、フランスで自分の名が知られる契機となりました。彼は失敗を単なる挫折として終わらせず、ボナパルト家の継承者としての印象を広める材料に変えていきました。
Ⅳ.ブローニュ事件とアム要塞での投獄
1840年、ルイ=ナポレオンは二度目の蜂起を企てました。この年、七月王政政府はナポレオン1世の遺骸をセントヘレナ島からフランスへ迎え、パリのアンヴァリッドへ改葬しました。これは「遺灰の帰還」と呼ばれる出来事であり、ナポレオンの記憶がフランス社会で大きく再評価される契機でした。
ルイ=ナポレオンはこの機会を利用し、1840年8月、イギリスから北フランスの港町ブローニュへ上陸しました。彼は軍服を着た支持者や象徴的な鷲を伴い、駐屯軍を味方につけてパリへ進むことを企てました。しかし、この計画も軍の支持を得られず、すぐに失敗しました。

1840年8月4日のブローニュ一揆 - Wikipedia
今度の政府は、彼を国外追放するのではなく、終身刑としてアム要塞に収監しました。ルイ=ナポレオンは1840年から1846年までの約6年間を牢獄で過ごしました。これは政治家としては不利な時期にも見えますが、彼は獄中で多くの文章を書き、自らの思想を整理しました。
彼は『貧困の絶滅』などで、労働者の生活改善、信用制度の改革、公共事業、農業振興、国家による経済発展の支援を論じました。彼の思想にはサン=シモン主義の影響が見られました。サン=シモン主義は、産業、科学、銀行、交通、公共事業を通じて社会を進歩させるべきだと考える思想でした。ルイ=ナポレオンは、社会主義革命によって所有権を破壊するのではなく、国家が経済を発展させ、雇用と信用を広げることで貧困を減らす道を模索しました。

アム要塞で服役するルイ・ナポレオン - Wikipedia
1846年、彼はアム要塞から脱走しました。労働者の服装に身を包み、「バダンゲ」という名で通ったと伝えられています。彼はベルギーを経由してイギリスへ逃れました。この脱走は彼の冒険的な人物像を強めるとともに、七月王政への反対者としての知名度をさらに高めました。
Ⅴ.1848年革命と第二共和政への帰国
1848年2月、パリで二月革命が起こり、ルイ・フィリップ1世が退位すると、七月王政は崩壊しました。フランスでは第二共和政が宣言されました。ルイ=ナポレオンはただちに帰国を試みましたが、臨時政府は当初、彼の帰国が国内政治を不安定にすると懸念し、国外にとどまるよう求めました。
しかし、男性普通選挙が導入されると、政治状況は大きく変化しました。ルイ=ナポレオンの名は、とりわけ地方農村部で強い影響力を持っていました。農民たちはナポレオン1世の時代を、革命後の土地所有を守り、国家秩序を確立し、フランスの威信を高めた時代として記憶していました。実際の第一帝政は重い徴兵と戦争を伴ったものでしたが、1848年の農民層にはナポレオン神話が強く残っていました。
ルイ=ナポレオンは補欠選挙で当選し、1848年9月には制憲議会の議員となりました。彼は共和政を尊重する姿勢を示しながら、社会主義的な急進化への不安を抱く農民、商工業者、保守層、カトリック層に支持を広げました。

1848年、国民議会の議員を務めるルイ・ナポレオン - Wikipedia
1848年6月には国立作業場閉鎖をきっかけに六月蜂起が起こり、カヴェニャック将軍が労働者を武力で鎮圧しました。この流血は、都市労働者の社会改革要求に対する恐怖を地方と有産層に広げました。多くの人々は、革命の継続よりも秩序の回復を望むようになりました。ルイ=ナポレオンは、この秩序への期待と、ナポレオン家の名が持つ人気を結びつけることに成功しました。
Ⅵ.1848年大統領選挙
1848年11月、第二共和政憲法が制定されました。この憲法は、男性普通選挙によって直接選ばれる大統領を置き、任期を4年、連続再選を禁止する制度を採用しました。12月10日に大統領選挙が行われると、ルイ=ナポレオンは主要候補として立候補しました。
彼の対抗候補には、六月蜂起を鎮圧したカヴェニャック将軍、社会主義的な立場のルドリュ=ロラン、穏健共和派のラマルティーヌなどがいました。ルイ=ナポレオンは、各勢力に異なる期待を抱かせることができました。農民には土地所有の保護と秩序、カトリック層には宗教と家庭の尊重、商工業者には安定と経済発展、労働者の一部には雇用・貧困対策への関心、軍人にはナポレオンの名が象徴する名誉を訴えました。

1848年のフランス大統領選挙の様子を描いた絵。ナポレオンのポスターを持った子供とカヴェニャック将軍のポスターを持った子供が喧嘩をしている - Wikipedia
選挙の結果、ルイ=ナポレオンは約540万票を獲得して圧勝しました。カヴェニャックの得票は約140万票にとどまりました。この結果は、ナポレオンという名がいかに強い政治的資源だったかを示していました。同時に、1848年のフランス社会が、急進的な革命ではなく、秩序、安定、国家的威信を求めていたことも示していました。
1848年12月20日、ルイ=ナポレオンは第二共和政の大統領に就任しました。彼はフランスで初めて、男性普通選挙によって全国規模で選出された大統領でした。この立場は、議会の支持だけではなく、直接に国民の支持を受けたという強い正統性を彼に与えました。
Ⅶ.大統領時代と秩序党との協力
大統領就任直後のルイ=ナポレオンは、議会の多数を占める保守派・王党派の「秩序党」と協力しました。彼自身はボナパルト家の人物であり、王党派とは本来異なる立場でしたが、社会主義運動や急進共和主義を抑えるという点では利害が一致していました。
1849年、フランスはローマへ軍隊を派遣しました。イタリアでは革命の波の中でローマ共和国が成立し、教皇ピウス9世がローマを脱出していました。フランス政府はカトリック層への配慮とヨーロッパ外交上の利益から、教皇の世俗支配を回復するために出兵しました。フランス軍はローマ共和国を打倒し、教皇の復帰を可能にしました。

1849年のフランス軍のローマ侵攻を描いた絵 - Wikipedia
このローマ出兵は、青年期にイタリアの自由主義運動に共感していたルイ=ナポレオンにとって、矛盾を含む政策でした。彼はイタリア統一や民族的自立への理解を持っていましたが、大統領としては国内のカトリック支持を確保し、保守派との協調を維持する必要がありました。政治的立場の変化は、彼が思想よりも権力維持と政治的均衡を優先する現実主義者であったことを示しています。
1850年にはファルー法が制定され、教育におけるカトリック教会の役割が拡大しました。また同年の選挙法改正では、一定期間の定住要件が導入され、移動の多い都市労働者を中心に多くの男性が選挙権を失いました。これは1848年革命の重要な成果であった男性普通選挙を実質的に狭めるものでした。
ルイ=ナポレオンは当初これらの保守的政策に協力しましたが、やがて議会の秩序党に対抗する立場へ移っていきました。彼は、議会の王党派が自分を利用して最終的にブルボン家またはオルレアン家の王政を復活させるのではないかと警戒しました。また、1852年に大統領任期が切れる以上、再選禁止を定めた憲法を変えなければ、自らの政治的地位を失うことになります。
Ⅷ.再選問題と1851年12月2日のクーデター
第二共和政憲法は、大統領の連続再選を禁じていました。ルイ=ナポレオンは憲法改正によって再選可能にしようとしましたが、議会は必要な多数を与えませんでした。王党派や保守派の一部は、彼が権力を集中させて帝政を復活させることを恐れていました。
ルイ=ナポレオンは地方遊説を行い、農民、地方の有力者、軍人、カトリック層に直接語りかけました。彼は自分が「国民に選ばれた大統領」であり、議会が国民の意思を妨げているという構図をつくり出しました。また、1850年の選挙法によって選挙権を失った人々に対して、普通選挙を回復する姿勢を示しました。
1851年12月2日、ルイ=ナポレオンはクーデターを実行しました。この日付は、ナポレオン1世の1804年の皇帝即位と、1805年のアウステルリッツの勝利を意識したものでした。彼は軍と警察を動かし、立法議会を解散し、共和派や王党派の有力政治家を逮捕しました。

ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリの様子を描いた絵 - Wikipedia
パリではバリケードが築かれ、共和主義者を中心とする抵抗が起こりました。一部の地方でも反乱が発生しましたが、軍隊によって厳しく鎮圧されました。クーデタ直後には、パリの大通りで軍が市民に発砲する事件が起こり、多くの犠牲者が出ました。政府は反対派を逮捕・追放し、出版物や政治活動への統制を強めました。
しかしルイ=ナポレオンは、軍事力だけに依存したのではありません。クーデタ後に国民投票を実施し、自らの行動に民意の承認を与えようとしました。国民投票では圧倒的多数の賛成が示されたとされます。自由な政治的議論が制限された状況での投票だったため、その結果を単純に民意とみなすことはできませんが、農村部を中心に、秩序の回復と強い指導者を求める支持が存在したことも確かです。
1852年1月、新憲法が制定され、大統領に強い権限が集中する体制が整えられました。立法機関は残されましたが、政府の統制下に置かれ、自由な議会政治は大きく制限されました。第二共和政は形式上継続していましたが、実態は大統領個人の権力を中心とした統治へ移行していました。
Ⅸ.第二帝政の成立
1852年11月、ルイ=ナポレオンは再び国民投票を行い、帝政の復活について承認を求めました。賛成多数という結果を受けて、1852年12月2日、彼はナポレオン3世として皇帝に即位しました。ここにフランス第二帝政が成立しました。
彼が「ナポレオン2世」ではなく「ナポレオン3世」を名乗ったのは、ナポレオン1世の息子ナポレオン2世、すなわちライヒシュタット公を正統な先代として数えたためです。ナポレオン2世は実際にフランスを統治したわけではありませんが、ボナパルト家の継承の正統性を示すうえで重要な存在でした。

1852年に撮影されたルイ・ナポレオンの肖像写真 - Wikipedia
第二帝政初期の政治体制は、一般に「権威帝政」と呼ばれます。皇帝は行政、立法、外交、軍事に大きな影響力を持ち、大臣は議会より皇帝に責任を負いました。立法府は存在しましたが、法律の提案権は原則として政府側にあり、議会での討論や報道も制限されました。知事や警察、官僚機構を通じて地方選挙にも強い影響が及びました。
一方で、ナポレオン3世は自らの統治を、単なる世襲的専制とは位置づけませんでした。彼は国民投票、男性普通選挙、国民の直接的支持を重視し、「皇帝と国民の直接的結びつき」を正統性の基盤としました。この政治手法はボナパルティズムと呼ばれます。すなわち、議会や政党を介するよりも、強力な指導者が国民投票を通じて国民の意思を体現するという考え方です。
Ⅹ.経済近代化と産業政策
ナポレオン3世の統治は、政治的には抑圧的な性格を持ちましたが、経済面ではフランスの近代化を大きく進めました。彼はアム要塞での投獄中から、公共事業、信用制度、銀行、交通網、農業振興によって社会の繁栄を広げる構想を持っていました。皇帝となった後、その構想を国家政策として実施しました。
第二帝政期には、鉄道網の建設が急速に進みました。パリを中心として各地方都市を結ぶ鉄道路線が整備され、人と物資の移動が大きく変化しました。鉄道は国内市場を統合し、石炭、鉄、繊維、機械、農産物の流通を促進しました。また、地方の農民や商人が都市市場と結びつくことで、フランス経済の全国的統合が進みました。

1858年、トゥールーズ・マタビオ駅の線路開通の様子 - Wikipedia
金融制度の整備も重要でした。クレディ・モビリエのような投資銀行が設立され、鉄道、鉱業、不動産、都市開発などの大規模事業に資金を供給しました。株式会社や銀行の役割が増し、従来の家族経営的な商業資本だけでは難しかった大規模投資が可能になりました。

「クレディ・モビリエ」の旧本店。パリのヴァンドーム広場にあり、1898年以降はホテル・リッツとなっている - Wikipedia
農業についても、ナポレオン3世は農村を自らの重要な支持基盤と考えていました。農業信用、農業技術の普及、地方交通の改善、灌漑や排水などの整備が進められました。フランスは依然として農村人口の多い国であり、皇帝は都市工業の発展だけでなく、農民の土地所有と生活安定を意識していました。
ただし、急速な投資と信用拡大には投機的な側面もありました。経済発展の利益は地域や階層によって差があり、都市労働者の生活が常に安定したわけではありません。とはいえ、第二帝政は、フランスが近代的な産業資本主義社会へ移行する過程を大きく加速した時代だったと評価できます。
Ⅺ.パリ改造とオスマンの都市計画
ナポレオン3世の内政で最も目に見える成果は、パリ改造です。1853年、彼はセーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンを任命し、パリの大規模な都市再開発を始めました。中世以来の狭く曲がりくねった街路が多く残るパリを、近代的な首都へ改造することが目的でした。

ジョルジュ・オスマン - Wikipedia
オスマンのもとで、幅の広い直線道路、大通り、広場、公園、鉄道駅周辺の整備が進められました。上下水道、ガス灯、公共建築、市場、病院、学校なども整備され、パリは衛生・交通・景観の面で大きく変化しました。ブローニュの森やヴァンセンヌの森などの大規模公園も、都市住民のための空間として整備されました。
この改造には複数の目的がありました。第一に、人口増加と都市化によって悪化していた衛生問題を改善することでした。第二に、交通と商業を発展させ、首都を経済活動の中心として強化することでした。第三に、フランスの威信を示す壮麗な首都をつくることでした。
同時に、政治的・軍事的な意味もありました。1848年やそれ以前の革命では、狭い路地がバリケード戦に有利でした。幅広い道路は軍隊の移動を容易にし、蜂起側が街を封鎖することを難しくしました。そのためパリ改造は、都市衛生と近代化の事業であると同時に、革命の再発を抑える統治技術でもありました。

パリ改造計画で新設もしくは拡張された道路(赤い部分) - Wikipedia
再開発は多くの建物の取り壊しを伴い、低所得者層が中心部から移転を余儀なくされる面もありました。新しい大通り沿いには裕福な層向けの建物や商店が増え、パリの社会的地理も変化しました。それでも、第二帝政期の都市改造は、今日のパリの景観の基盤をつくった事業として大きな歴史的意義を持っています。
Ⅻ.クリミア戦争とフランスの国際的復帰
ナポレオン3世は国内の発展だけでなく、外交的成功によって第二帝政の威信を高めようとしました。ナポレオン1世の敗北後、フランスはウィーン体制のもとでヨーロッパ外交の中心から一定程度外されていました。ナポレオン3世は、フランスを再び列強外交の中心へ復帰させることを目指しました。
最初の大きな成功がクリミア戦争でした。1853年、ロシア帝国とオスマン帝国の対立が深まり、ロシアの南下と東地中海への進出を警戒するイギリス・フランスがオスマン帝国側に立って参戦しました。フランス軍はイギリス軍、サルデーニャ王国軍などと協力してロシアと戦いました。

クリミア戦争(1854年) - Wikipedia
戦争はクリミア半島を主戦場とし、セヴァストポリ包囲戦など激しい戦闘が続きました。1856年、パリ条約が結ばれて戦争は終結しました。ロシアは黒海における軍事的活動を制限され、フランスは講和会議の開催地となりました。この結果、ナポレオン3世はフランスをヨーロッパ外交の中心に戻すことに成功し、第二帝政の威信は大きく高まりました。

講和会議に出席している各国の全権(エドゥアール・デュビュフ作、ヴェルサイユ宮殿蔵) - Wikipedia
クリミア戦争は、フランスがイギリスと協力してロシアの影響力を抑えた戦争として重要でした。また、ウィーン体制以来の保守的な国際秩序が動揺し、イタリア・ドイツの統一問題が前面に出る条件をつくりました。ナポレオン3世にとっては、フランスの国際的地位を回復する成功でしたが、以後の外交では、より複雑で危険な問題に深く関与することになります。
XIII.イタリア統一戦争とその限界
ナポレオン3世は青年期にイタリアの民族運動と接点を持っていたため、イタリア統一問題に深い関心を持っていました。1858年、イタリアの民族主義者フェリーチェ・オルシーニがナポレオン3世の暗殺を企てる事件が起こりました。爆弾テロ自体は失敗しましたが、オルシーニは獄中から皇帝に対し、イタリアの独立と統一を支援するよう訴えました。

フェリーチェ・オルシーニ - Wikipedia
1858年7月、ナポレオン3世はサルデーニャ王国首相カミッロ・カヴールと、フランスのプロンビエールで秘密会談を行いました。両者は、オーストリアを北イタリアから追い出すために協力することを約束しました。その見返りとして、サルデーニャ王国はフランスへサヴォイアとニースを譲渡することになりました。

1843年時点のイタリア - Wikipedia
1859年、フランスとサルデーニャ王国はオーストリアと戦いました。ナポレオン3世は自ら軍を率い、マジェンタの戦いとソルフェリーノの戦いで勝利を得ました。とくにソルフェリーノの戦いは非常に多くの死傷者を出し、戦場の惨状を見たアンリ・デュナンが後に赤十字創設へ向かう契機となったことでも知られます。

ソルフェリーノの戦いのナポレオン3世、ジャン=ルイ=エルネスト・メソニエ作、油絵、1863年 - Wikipedia
しかし、ナポレオン3世は戦争を最後まで拡大しませんでした。1859年7月、彼はオーストリアとヴィッラフランカで休戦し、ロンバルディアはサルデーニャ王国に渡りますが、ヴェネツィアはなおオーストリア領に残りました。彼が急に講和した背景には、戦争の犠牲の大きさ、フランス国内のカトリック層が教皇領の将来を懸念したこと、プロイセンがライン方面で動員を始めたことなどがありました。
この政策は、イタリア統一を完全に実現するものではありませんでしたが、統一の大きな前進を助けました。一方、カトリック層からは教皇領を脅かしたとして批判され、イタリア民族主義者からは統一を途中で止めたとして不満を持たれました。ナポレオン3世は、民族自決への共感、フランスの国益、カトリック支持、列強均衡という相反する要素を同時に満たそうとして、完全には成功できませんでした。
XIV.植民地拡大とアジアへの進出
第二帝政期には、フランスの植民地活動も拡大しました。アルジェリアでは、1830年に始まったフランスの軍事占領と植民地支配が第二帝政下でさらに進められました。現地住民に対する軍事的圧力と土地収奪を伴う植民地支配は、フランスの海外拡張の重要な一部でした。
アジアでは、フランスは中国とベトナム方面へ進出しました。1858年以後、フランスはスペインとともにベトナムへ軍事介入し、南部のコーチシナを支配下に置きました。1862年のサイゴン条約などを通じて、フランスは東南アジアにおける植民地拠点を確保しました。

コーチシナ(黄色) - Wikipedia
また、第二次アヘン戦争ではイギリスと協力して清朝に圧力をかけ、天津条約や北京条約の成立に関与しました。1860年には英仏連合軍が北京へ進軍し、円明園が略奪・焼却される事件が起こりました。これらの対外進出は、フランスの商業的利益、宣教師保護、海軍力の拡大、列強間の競争と結びついていました。

アロー戦争、英仏軍の円明園の略奪 - Wikipedia
ナポレオン3世の対外政策は、ヨーロッパにおける国際的威信の回復だけでなく、世界規模でのフランスの影響力拡大を目指すものでした。しかし、植民地拡大には多大な軍事費と人命の犠牲が伴い、現地社会にとっては主権の侵害と支配の始まりを意味しました。
XV.メキシコ出兵とその失敗
ナポレオン3世の外交で最も大きな失敗となったのが、メキシコ出兵でした。1861年、メキシコ政府が対外債務の支払いを停止すると、フランス、イギリス、スペインは債権回収を理由に共同でメキシコへ軍を派遣しました。しかしイギリスとスペインは交渉後に撤兵し、フランスだけが軍事介入を継続しました。
ナポレオン3世には、アメリカ大陸にフランスの影響圏を築き、ラテン系・カトリック系の帝国を支援するという構想がありました。当時、アメリカ合衆国は南北戦争の最中であり、モンロー主義にもとづいて介入する余力が限られていました。ナポレオン3世はこの機会を利用し、メキシコに親フランス政権をつくろうとしました。
フランス軍は当初、メキシコ軍の抵抗に遭いました。1862年5月5日のプエブラの戦いでは、メキシコ軍がフランス軍を破りました。この勝利は現在でもメキシコで「シンコ・デ・マヨ」として記憶されています。その後、フランスは増援を送り、1863年にメキシコシティを占領しました。

プエブラの会戦 - Wikipedia
ナポレオン3世は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟であるハプスブルク家のマクシミリアンを、メキシコ皇帝として迎えました。1864年、マクシミリアンはメキシコへ渡り、第二メキシコ帝国が成立しました。しかし、この政権はフランス軍の支援なしには維持できず、メキシコ共和国の大統領ベニート・フアレスとその支持者は抵抗を続けました。

ベニート・フアレス - Wikipedia
1865年にアメリカ南北戦争が終結すると、アメリカ合衆国はフランスに対して撤兵を求めました。プロイセンの台頭などヨーロッパ情勢も緊張するなかで、ナポレオン3世はメキシコに大軍を維持し続けることが困難になりました。1866年からフランス軍は撤退を始め、1867年にはマクシミリアンがメキシコ共和国軍に捕らえられて処刑されました。

マクシミリアンらの処刑の様子を撮影した写真。右からマクシミリアン、ミゲル・ミラモン、トマス・メヒア - Wikipedia
メキシコ出兵は、フランスに多額の費用と国際的な威信の損失をもたらしました。ナポレオン3世がマクシミリアンを十分に保護できないまま撤兵したことは、国内外で強く批判されました。この失敗は、第二帝政の無敵という印象を壊し、皇帝の判断力に対する信頼を弱める重要な転機となりました。
XVI.1860年代の自由化と社会政策
1860年代に入ると、ナポレオン3世は統治のあり方を徐々に変えていきました。初期の第二帝政は、選挙統制、新聞検閲、反対派弾圧を特徴とする権威帝政でした。しかし、経済発展によって都市の中産階級が成長し、自由主義者や共和主義者が議会内外で影響力を増すと、皇帝は従来の統制だけでは体制を維持できないと判断しました。
1860年には、立法院が政府の政策について討議する権利をより広く認められました。1861年には議会で予算審議が公開され、1867年には議会の質問権が強化されました。1869年の選挙では反対派が大きく議席を増やし、帝政は議会の意向を無視できなくなりました。
労働者に対する政策でも変化がありました。1864年、労働者のストライキ権が一定の条件下で認められました。これは労働者の団結や争議を全面的に容認するものではありませんでしたが、労働運動に対する刑事的抑圧を緩和する重要な改革でした。1860年代後半には労働者の組織化も徐々に進みました。
ナポレオン3世は、国家が労働者と資本家の対立を調整し、経済発展の成果を社会全体に広げるべきだという考えを持っていました。これはアム要塞時代に書いた社会政策論ともつながっていました。ただし、彼の改革は上から与えられたものであり、労働者自身の政治参加や自治を全面的に認めるものではありませんでした。
1860年にはイギリスとの自由貿易条約(コブデン=シュヴァリエ条約)が結ばれました。これはフランス産業を国際競争にさらす政策であり、一部の製造業者や保護主義者の反発を招きました。しかし、ナポレオン3世は貿易拡大と産業競争力の向上を通じて経済を発展させようとしました。こうした改革と自由化の時代は、一般に「自由帝政」と呼ばれます。

コブデン=シュヴァリエ条約をめぐる1860年2月の議会討論で、庶民院(下院)に向けて演説するパーマストン卿。ジョン・フィリップ作(1863年) - Wikipedia
XVII.皇后ウジェニーと皇太子の誕生
1853年、ナポレオン3世はスペイン系貴族のウジェニー・ド・モンティジョと結婚しました。皇后ウジェニーは美貌と社交性で知られ、第二帝政の宮廷文化を象徴する存在となりました。彼女は単なる儀礼的存在ではなく、政治、とりわけカトリック問題、イタリア問題、メキシコ問題などにも一定の影響を持ちました。

ウジェニー・ド・モンティジョ - Wikipedia
1856年には皇太子ナポレオン=ウジェーヌ=ルイ・ボナパルト、通称「帝国皇太子」が誕生しました。これはボナパルト王朝の継承を安定させる出来事として大いに歓迎されました。第二帝政は国民投票による正統性を基礎としながらも、皇太子の誕生によって王朝的継続性を得ようとしました。

8歳のルイ・ナポレオン(1864年) - Wikipedia
皇后ウジェニーは、カトリック信仰を重視し、教皇領を守るべきだと考えました。そのため、イタリア統一を支援しつつ教皇の支配を維持しようとするナポレオン3世の外交では、皇后と皇帝の周辺が複雑な影響を与えました。また、メキシコ出兵に関しても、カトリック帝国の建設という構想に皇后が好意的だったとされます。
XVIII.普仏戦争への道
1860年代後半、ヨーロッパの勢力均衡は大きく変化しました。最大の要因は、プロイセン王国の首相オットー・フォン・ビスマルクの登場でした。ビスマルクはプロイセン軍の改革を進め、ドイツ諸邦をプロイセンの主導で統合する政策を展開しました。

オットー・フォン・ビスマルクの肖像画。署名入り。1894年(18)94年と記載。キャンバス/板に油彩 - Wikipedia
1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利すると、オーストリアはドイツ問題から排除され、北ドイツ連邦が成立しました。フランスでは、プロイセンが急速に強大化することへの警戒が強まりました。ナポレオン3世は普墺戦争で中立を保ち、戦後に領土的補償を得ようと考えていましたが、ビスマルクはフランスに十分な見返りを与えませんでした。

北ドイツ連邦(赤)と、南部諸邦(黄) - Wikipedia
フランス国内では、「プロイセンの拡大を許した」という批判が高まりました。ナポレオン3世は健康を害し、体制はメキシコ出兵失敗後の動揺から完全には立ち直っていませんでした。こうした中で外交上の強硬姿勢が求められ、フランスはプロイセンとの対立を深めました。
直接のきっかけは、1870年のスペイン王位継承問題でした。スペインでは女王イサベル2世の退位後、王位候補としてプロイセン王家ホーエンツォレルン家のレオポルトが浮上しました。フランスは、東のプロイセンと南西のスペインを同じ王家につながる勢力に挟まれることを恐れ、候補辞退を要求しました。

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン - Wikipedia
レオポルトは辞退しましたが、フランス政府はプロイセン王ヴィルヘルム1世に対し、今後も同家のスペイン王位候補を支持しないという保証を求めました。ビスマルクは、エムスでの国王とフランス大使の会見報告を短く編集して公表しました。いわゆるエムス電報です。この文章は双方の国民感情を刺激し、フランスではプロイセンがフランス大使を侮辱したという印象を与えました。

エムス電報 - Wikipedia
1870年7月19日、フランスはプロイセンに宣戦布告しました。ナポレオン3世にとって、この戦争は低下した威信を回復し、フランスの安全を守るための戦いと考えられました。しかし、軍事準備、指揮系統、動員、外交のすべてにおいて、フランスはプロイセンおよび南ドイツ諸邦に対して不利な状況にありました。
XIX.普仏戦争とセダンでの捕虜
戦争が始まると、フランス軍の弱点はすぐに明らかになりました。プロイセン軍とドイツ諸邦軍は、鉄道を利用した迅速な動員、参謀本部による計画的な作戦、優れた砲兵力を備えていました。フランス軍にはシャスポー銃など優れた装備もありましたが、全体的な戦略と補給、統率で不利でした。

シャスポー銃を持ったフランス兵: 普仏戦争当時 - Wikipedia
ナポレオン3世は健康状態が悪く、腎臓・膀胱の病に苦しんでいたとされます。それにもかかわらず、皇帝として前線に赴き、軍の指揮にかかわろうとしました。しかし実際には軍事指導者として十分に状況を統制できず、各軍団の連携も乱れました。
開戦後、フランス軍はアルザス、ロレーヌ方面でドイツ軍と交戦しましたが、相次いで敗北しました。8月には、フランス軍の一部がメス要塞周辺に追い込まれました。バゼーヌ元帥が指揮する部隊は大規模な兵力を有していましたが、積極的な反攻に失敗し、最終的にはメスで包囲されました。

メス攻囲戦及びセダンの戦いの関連地(左)、フランス軍によるメスの防衛(画)アルフォンス・ド・ヌヴィル(右) - Wikipedia
もう一つのフランス軍は、皇帝ナポレオン三世とマクマオン元帥に率いられ、メスを救援するため北東へ移動しました。しかし、ドイツ軍はこの軍を包囲し、1870年9月1日、セダンの戦いが起きました。フランス軍は決定的に敗北し、マクマオンは負傷し、ナポレオン三世はドイツ軍に降伏しました。

フランスのレイユ将軍がナポレオン3世の降伏の意思をヴィルヘルム1世に伝える場面を描いた壁画。1884年にカール・シュテフェックによって描かれ、ベルリンの博物館(旧王宮)に保管されていたが、第二次世界大戦での爆撃により失われた- Wikipedia
セダン敗北の知らせがパリに届くと、1870年9月4日、パリでは共和主義者が蜂起し、立法院で第二帝政の廃止と第三共和政の成立が宣言されました。皇后ウジェニーはパリを脱出し、イギリスへ亡命しました。ナポレオン3世はなお生きていましたが、その帝政は事実上終わりました。
その後フランスでは国防政府が成立し、戦争はしばらく継続します。プロイセン軍はパリを包囲し、1871年1月にはドイツ帝国がヴェルサイユ宮殿で成立します。これはフランスにとって大きな屈辱であり、ナポレオン3世の外交と軍事政策への批判を決定づける出来事となりました。
XX.亡命、死去、帝国の終焉
捕虜となったナポレオン3世は、ドイツで拘束された後、1871年に解放されました。彼はイギリスへ渡り、妻ウジェニーと皇太子のいる地へ向かいました。かつて1840年代に亡命者として暮らしたイギリスは、彼にとって再び避難所となりました。

1872年のナポレオン3世一家 - Wikipedia
彼はロンドン近郊のチズルハーストにあるカムデン・プレイスで暮らしました。亡命後もボナパルト派の支持者は存在し、帝政復活の可能性を完全に捨てたわけではありませんでした。しかし、フランスでは第三共和政が定着へ向かい、ナポレオン3世が再び権力を得る見込みは次第に薄れていきました。ナポレオン3世は健康を長く害しており、1873年1月9日、手術後の合併症により死去しました。享年64歳でした。

『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』に掲載されたナポレオン3世臨終のイラスト - Wikipedia
彼の死後、帝国皇太子がボナパルト派の希望となりましたが、1879年、皇太子はイギリス軍に同行した南アフリカでズールー戦争中に戦死しました。これにより、ナポレオン3世が築いた王朝の再興は事実上きわめて困難になりました。

ナポレオン3世の遺児ルイの最期を描いた絵画 - Wikipedia
ナポレオン3世、皇后ウジェニー、帝国皇太子の遺骸は、現在イギリスのファーンバラにある聖ミカエル修道院に安置されています。彼がフランス皇帝として統治した期間は18年に及びましたが、その生涯は、幼少期の亡命、二度の蜂起失敗、共和国大統領への当選、クーデタ、皇帝即位、戦争での捕虜、そして再び亡命という、きわめて劇的な軌跡をたどりました。

最後のボナパルト皇帝の眠る場所――フランスではなく、英国屈指の『知られざる絶景』を望むハンプシャーの地 | Country Life
このコインの鑑定枚数(1868年発行、ストラスブールミント)は、PCGSでは51枚あり、Top PopはMS64となります。NGCは区分が不明のためよく分かりませんでした(Top PopはMS64?)。このコインは1861年~1870年の10年間発行され、最も発行枚数が少ないのは1862年発行でミントマーク無しであると思われます(発行枚数は不明)。1861年発行の試作貨も少数存在するようです。これらのハイグレードのコインはかなり希少であると思われます。
今回の旅は、ここまでにしたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇♂️
探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙