コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ナワナガル藩王国 1コリ銀貨』です。
発行国 |
ナワナガル藩王国(インド) |
材質 |
シルバー |
品位 |
? |
発行年 |
1540~1948年 |
発行枚数 |
? |
鑑定会社 |
未鑑定 |
グレード |
G~VG相当 |
サイズ |
|
藩王国については、以下にまとめましたので参照して下さい。
rangalhu-coin.hatenablog.jp
このコインは、表面にはヒジュラ暦の年号で978、デーヴァナーガリー文字でスリ・ジャムジと刻まれています。ヒジュラ暦978年はナワナガル王国が誕生した年で、スリ・ジャムジは支配者の称号です。978年はコインの発行年ではありません。裏面には中央やや右下にカタール(短剣)の絵が描かれています。それ以外の部分については、よく分かりませんでした。
ナワナガル藩王国は、インド西部に位置しています。
Pudukkottai State - Wikipedia
このコインは、ナワナガル王国が誕生してから第2次世界大戦後にインドに帰属するまでのおよそ400年に渡って作られ、使われ続けたコインであるようです。今回は、比較的新しい年代で発行された想定で、1900年代に最も長く国王の座にあったランジット・シンジについて解説します。よって、正確なコインの発行年とずれがある可能性がありますので、その点はご承知おきください<m(__)m>
ランジット・シンジの在位期間は、1907~1933年の26年間でした。
Ranjitsinhji - Wikipedia
彼は35歳になってから王位に就きましたが、それ以前は有名なクリケット選手でした。
ランジット・シンジがクリケットを始めたのは10歳の頃で、チームでキャプテンを務めるほどに上達しました。彼はその年代でおそらく様々な記録を打ち立てていたはずですが、その頃のインドでプレイされていたクリケットは低水準で、またイギリスとは異なるものだったようで、明確な記録は残念ながら残されていません。1888年にロンドンに渡り、その後ケンブリッジ大学に入学しました。彼はそこでバッツマン(攻撃側の打者)として大活躍し、テストマッチでイングランド代表としてプレーしました。彼は、素早い反応と個性的なスタイルでクリケットに革命をもたらしました。特に、レッググローというショットが有名で、それは彼が考え出したものでした。彼はインドで最も早くトップクラスのクリケット選手となったため「インド・クリケットの父」と呼ばれています。
Ranjitsinhji caricatured by Spy for Vanity Fair, 1897 - Wikipedia
ランジット・シンジは、クリケットで数々の記録を打ち立てたようですが、クリケットに疎い私にはよく分かりませんでしたので、詳細は割愛します。Wikipediaに以下の記録が書かれていましたので、参考までに載せておきます。これを見ても、残念ながら私にはピンときません(^^;
Ranjitsinhji - Wikipedia
ランジット・シンジは、先代の王であるジャッサジが1906年に死去したため王位を継ぐことになりますが、ジャッサジは毒殺された疑いがあり、ランジット・シンジが関わったのではないかという疑いをもたれ、ジャッサジの未亡人が訴訟を起こしました。最終的に、彼のクリケット選手時代の人気やイギリス要人との密接な関係が考慮されたためか、訴訟は棄却となり王位を正式に継ぎました。
彼が即位した時点のナワナガルは干ばつの影響により、国民は貧困と病気に苦しんでいました。1907年には、首都のジャムナガルでは毎日30人が病気で亡くなっていました。彼自身も病気となり、一時イギリスに渡りクリケットの試合に出場しながら療養し、やがて帰国しましたが、多くのスタッフが彼の下を去っており、さらには彼の暗殺が計画されていることが発覚しました。彼は国の貧しさを解消するため無理がある政策を採用したため、いくつかの村で反乱が起こりそれらを討伐しなければなりませんでした。こういった状況により、近代化は思ったように進みませんでした。
第一次世界大戦が勃発すると、ランジット・シンジは1914年にヨーロッパの西部戦線に赴きました。その間、ナワナガルの行政官であったベルトンはようやく近代化計画の実施に取り掛かりました。首都のスラム街を撤去し、新たな家屋、商店、道路を建設、灌漑設備を整備し、干ばつによる被害を軽減しました。また、財政を改善し、鉄道網を整備しました。ランジット・シンジが帰国後も、イギリス政府はベルトンの留任を望みましたがランジット・シンジはそれを拒否、最終的にベルトンの地位を格下げすることで妥協しました。ベルトンはそれを恨むようなことはなかったようで、1920年に引退した後もランジット・シンジとは親しい間柄でした。
ナワナガルの財政は、その後もベディ港の建設によりさらに改善されました。ナワナガルの収入は1916年から1925年の間に2倍以上に増加しました。ランジット・シンジは即位後も多くの負債を抱えるなど、金銭面では非常に苦労し続けましたが、ようやく王族らしい贅沢な暮らしができるようになりました。
Bedi Port, Nawanagar | Maritime Trade of Gujarat's Princely States: Nawanagar and Porbandar @ IIMA Archives
ランジット・シンジは、1933年4月2日に心不全によりで60歳で亡くなりました。彼の遺体は火葬され、遺灰はガンジス川に撒かれました。
このコインの鑑定枚数は、PCGSでは1枚ありTop PopはMS62となります。NGCでは5枚あり、Top PopはMS63となります。ナワナガル藩王国のコインは、銅貨であればフリマサイトで見つかると思いますが、銀貨を見かける機会は少ないのではないかと思います。インドのコインを集められている方は、是非探してみてください。
今回の旅は、ここまでにしたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇♂️
探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙