コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『教皇領 1/2バイオッコ銅貨 ピウス9世』です。

| 発行国 | 教皇領(バチカン、イタリア) |
|---|---|
| 材質 | カッパー |
| 品位 | ? |
| 発行年 | 1851年 |
| 発行枚数 | 4,001,000 |
| 鑑定会社 | 未鑑定 |
| グレード | XF~AU相当 |
| サイズ |
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このコインは、表面には中央にピウス9世の紋章が描かれ、その周囲にラテン語で「ピウス9世 偉大な教皇 5(教皇就任から5年目の意味)」と刻まれています。裏面には上から額面の「1/2」、単位の「バイオッコ」、発行年の「1851」、ミントマークの「R(ローマ)」と刻まれています。
このコインは、第255代ローマ教皇のピウス9世の治世において発行されたコインです。ピウス9世の在位期間は、1846年6月16日~1878年2月7日のおよそ32年間でした。

ジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェッレッティ(後のピウス9世)は、1792年5月13日、教皇領のセニガッリアで生まれました。生まれた日に洗礼を受け、ジョヴァンニ・マリア・バッティスタ・ピエトロ・ペッレグリーノ・イシドロと名付けられました。彼は、ヴォルテッラとローマの神学校で教育を受け、1823年から2年間、宣教団の監査官として南米に渡りました。1831年にスポレートの大司教に任命され、1840年には枢機卿に選出されました。1846年6月1日にグレゴリウス16世の死去を受けて行われたコンクラーヴェは、保守派と改革派の激しいせめぎあいとなりましたが、最終的にはフェレッティが選ばれ、ピウス9世を名乗りました。彼は、1700年以降で最年少となる54歳での選出となりました。

ピウス9世は、教皇領の侵犯に断固反対し、イタリア地域に大きな影響力を有していたオーストリア帝国の指導者メッテルニヒらの脅しにも屈することなく教皇領の独立を主張するなど、毅然とした姿勢を取りました。イタリアの民族主義者らはイタリア地域のオーストリアからの解放と、イタリア統一を望んでいたため、教皇の態度は彼らから大いに歓迎されました。彼らはピウス9世を「覚醒教皇」と呼び、イタリア統一の象徴として支持しました。

1848年は、1848年革命と呼ばれる自由主義革命運動が欧州各国で発生しました。ミラノでは、ミラノの5日間と呼ばれる民衆反乱が発生し、ヴェネツィアでは自由主義者のダニエーレ・マニンを長とする臨時政府が樹立されました。ミラノの自由主義者らはサルデーニャ王国国王のカルロ・アルベルトに介入を要請、これに応える形で同年3月23日にオーストリアに宣戦布告しました。イタリア統一を望む勢力は教皇軍の援軍を期待しましたが、ピウス9世はカトリック教国であるオーストリアとの摩擦を嫌い、同年4月に戦争はカトリック分裂の恐れがあるとの理由で教会は一切戦争に介入しないという教書を発しました。サルデーニャ軍の戦局は不利に進み、1849年3月のノヴァーラの戦いで惨敗、権威を失墜したカルロ・アルベルトは同日に退位しポルトガルへ亡命しました。サルデーニャの国王には、カルロ・アルベルトの子であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位しました。

1848年革命の影響は教皇領にも波及し、立憲政治を求める市民階級が革命運動を広めると、教皇自身は自由主義に次第に距離を置くようになりました。1848年3月にローマ新憲法を発布しましたが、その内容は教会側の優位を認めた保守的なもので、自由主義者らは失望しました。その後教皇の信頼の厚い首相ペッレグリーノ・ロッシが暗殺されて暴動が起こり、教皇自らも市民軍によって軟禁されました。1848年11月24日、ピウス9世は政情不安定のローマを離れ、密かに両シチリア王国のガエータへ逃れました。教皇領にはローマ共和国が成立、これを警戒した教皇はローマ共和国に破門を宣言しました。ローマ共和国は、その後フランス軍の攻撃を受けて1849年4月に降伏し滅亡、フランス軍によってローマの秩序が回復されると、ピウス9世は1850年に帰還しました。

フェルディナンド・ブッチ作「コルヌーダの戦い」 - Wikipedia
1849年に発足したサルデーニャ王国のダゼーリョ内閣は、教会が保持する特権の廃止を目論み、シッカルディ法案を議会に提出しました。ピウス9世は法案を可決しないようサルデーニャ王国に圧力をかけましたが、法案は議会で可決されました。1850年に死去した農商務大臣を務めていたピエトロ・ディ・サンタローザは、この法案をめぐり教会と対立していたため、臨終の際に秘跡(終油礼)の施しを聖職者から拒否されるという不遇の最期となりました。サンタローザの友人であり、また法案の起草者と言われている議員のカミッロ・カヴールは、秘跡の施しを拒んだ神父の元へ行き口汚く罵って口論になりました。後にカヴールは、『イル=リソルジメント』紙上にサンタローザへの秘跡の施しを拒否した教会を非難する言説を発表しました。カミッロ・カヴールは、1852年11月にサルデーニャ王国の首相に任命され、サルデーニャ王国とピウス9世の対立は激化していくことになりました。

カヴール内閣は、前内閣の国内のカトリック教会の特権を廃止する政策を引き継ぎ、修道院を廃止してその財産を国有化し、国家財源に充てるというウルバーノ・ラッタッツィが起草した修道院法案を議会に提出しました。ピウス9世は、修道院法案に関わる者全てを公会議で定められた規則通りに破門すると脅迫しました。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世もこの法案に反対し、カヴールとラッタッツィに妥協を求めましたがこれに応じず、内閣総辞職を決定してカヴール内閣は崩壊しました。カヴールは、1855年5月4日にふたたび首相に任命され、修正修道院法案を議会に提出、法案は5月22日に上院でかろうじて可決され成立しました。ピウス9世は宣言していた通り、同年7月26日に法案成立に関与した国王、首相カヴールとその閣僚ら、賛成した議員らを全員破門しました。

1861年にイタリア王国が成立する過程で、サルデーニャ王国のジュゼッペ・ガリバルディは両シチリア王国の征服のために教皇領の東半分に当たるマルケとウンブリアを1860年9月に占領しました。1861年3月18日にピウス9世は、サルデーニャ軍の派兵で教皇領の一部を奪いイタリア王国成立に関与した全ての人物を破門しました。カヴールは教皇庁を翻意させるためジャコモ・アントネッリ枢機卿を買収しようと画策しましたが失敗しました。

1861年3月25日、カヴールはイタリア王国の首都はローマに置かれるべきであると議会で演説しました。ローマは教皇領の一部でしたが、カヴールはローマ教皇(教皇庁)に、宗教活動の自由を保障する代わりに武装解除と世俗権力を放棄するよう促し、フランス軍に代わってイタリア軍が教皇の番兵になると説得しました。ピウス9世はこれに反発し、教皇領を包囲するように成立したイタリア王国を「カトリックに対する無限の悪と誤りを生み出す存在」と呼んで非難しました。ピウス9世は、ガリバルディによって征服された両シチリア王国のフランチェスコ2世国王夫妻の亡命を受け入れ、南イタリアで山賊行為を働いていたブリガンテに武器・弾薬・衣類・食料の提供を行い、教皇領の国境地帯に位置する教会施設をブリガンテに供与するといった行動を取り、対立を深めていきました。

教皇ピウス9世に謁見するフランチェスコ2世(教皇の左隣の燕尾服の人物) - Wikipedia
1861年6月、カヴールはマラリアとみられる症状を発症し急死しました。カヴールはキリスト教徒として死ぬことを望みましたが、ピウス9世から破門されていたため、知人のジャコモ神父に依頼し6月5日の朝に秘跡(ゆるしの秘跡)を受けました。ピウス9世は、破門された者に秘跡を施したジャコモ神父に対し、聖職者としての地位を剥奪しました(次のローマ教皇レオ13世の代で解除)。教皇庁の公的機関誌『チヴィルタ・カットーリカ』は、カヴールの死を「天上からの復讐」だと報じました。

サンテナ・カヴール城にあるカヴールの墓 - Wikipedia
1870年に普仏戦争が勃発、フランス軍が撤退して無防備となったローマは、イタリア軍によって占領されました。翌1871年、教皇領は廃止され、ローマが正式にイタリア王国の首都となると、ピウス9世は自らが「バチカンの囚人」であると宣言し、イタリア政府関係者を破門に処し、カトリック信者がイタリア議会議員選挙に投票することを禁じる教令「ノン・エクスペディト」の発令や、王族の冠婚葬祭の招待の黙殺などの対抗処置を行い、イタリア政府とバチカンは完全に断交状態に陥りました。教皇領の失陥以降、ピウス9世は生涯バチカンから一歩も外へ出ることはありませんでしたが、カトリックの最高指導者としての影響力を存分に行使し続けました。1871年にはカトリック抑圧を行ったドイツ帝国の宰相ビスマルクとの間で文化闘争を引き起こしました。ピウス9世はビスマルクに全く怯むことなく圧力を加え続け、カトリックの教勢守護のための活動を最後まで精力的に続けました。

対立する帝国宰相ビスマルクと教皇ピウス9世を描いた風刺画(1875年) - Wikipedia
ピウス9世は、1878年2月7日に教皇宮殿にて帰天しました。彼の最期の言葉は「私が愛してやまない教会を守れ」だったと言われています。在位期間は31年7か月におよび、史実で明らかな教皇たちの中では最長の在位期間を記録しました。遺骸は遺言により、ローマ帝国期に殉教した聖人ラウレンティウスを祀るサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂に埋葬されました。自らを殉教者になぞらえたもので、イタリア統一政府への抗議の姿勢であったとされています。

このコインの鑑定枚数(1851年発行)は、PCGSでは3枚あり、Top PopはMS64RBとなります。NGCでは4枚あり、Top PopはPF63BN、PF66RB、PF65RDとなります。このコインは、1850年発行のボローニャミントが最も発行枚数が少なく、希少であるようです。
今回の旅は、ここまでにしたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇♂️
探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙















































