コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『スウェーデン=ノルウェー連合王国 10オーレ銀貨 オスカル2世』です。

このコインは、表面には中央に戴冠したオスカル2世のモノグラムが描かれ、その周囲にノルウェー語で「兄弟諸君の幸福」と刻まれています。裏面には中央に王冠を頂いた楯の内側に斧を持つライオンが描かれ、その上部に額面の「10オーレ」、左右に発行年「1898」が刻まれています。
このコインは、スウェーデン=ノルウェー連合王国の第5代国王オスカル2世の治世において発行されたコインです。オスカル2世の在位期間は、1872年9月18日~1907年12月8日のおよそ35年間でした。

オスカル2世 (スウェーデン王) - Wikipedia
オスカル2世は、#125で解説したカール15世の弟です。
rangalhu-coin.hatenablog.jp
オスカル・フレドリク(後のオスカル2世)は、1829年1月21日にカール15世の息子で皇太子のオスカルとロイヒテンベルク公ヨゼフィーネの三男として生まれました。彼のスウェーデン王位継承順位は、父と兄に次ぐ4位でしたが、末子であったため王位を継承できる見込みはありませんでした。幼少期は、王室家庭教師のクリスティーナ・ウルリカ・タウベ伯爵夫人の保護下に置かれました。

1829年にマウリッツ・フルメリーが制作したメダル。オスカル皇太子の3人の長男、カール、グスタフ、オスカルが描かれている。- Wikipedia
オスカル王子は、11歳でスウェーデン王立海軍に士官候補生として入隊し、1845年7月に少尉に任命されました。その後ウプサラ大学で学び、数学で優秀な成績を収めました。1848年12月13日にはスウェーデン王立科学アカデミーの名誉会員となりました。オスカル王子は、1857年6月6日にゾフィア・フォン・ナッサウと結婚し、グスタフ(後のグスタフ5世)、オスカル、カール、エウシェンの4人の息子をもうけました。彼女については、別の機会に詳しく書きます。

ゾフィア・フォン・ナッサウ - Wikipedia
1872年に父カール15世が亡くなると、オスカル王子はスウェーデンとノルウェーの王位継承者となりました。カール15世の長男セーデルマンランド公爵カール・オスカル王子は1854年に肺炎で亡くなり、次男のウップランド公爵グスタフ王子は1852年に腸チフスで亡くなっていたため、正当な後継者がいませんでした。即位に際して、彼は「兄弟諸君の幸福」をモットーとしました。スウェーデン国王としての戴冠式は1873年5月12日に、またノルウェー国王としての戴冠式は2ヶ月後の1873年7月18日に執り行われました。国王とその家族は主にスウェーデンに居住していましたが、オスカル2世はノルウェーとの同盟維持における本質的な困難を就任当初から認識しており、ノルウェー語を流暢に話せるよう努力しました。
スウェーデン首相の職は、1876年に創設されました。ルイ・ゲルハルト・デ・ギアは、初代のスウェーデン首相に任命されました。オスカル2世の治世下で最も有名で有力な大臣は、保守的な地主エリク・グスタフ・ボストロムでした。ボストロムは1891年から1900年、そして1902年から1905年に首相を務めました。オスカル2世は、首相の人選には非常に苦労しましたが、ボストロムからは信頼と尊敬を得ていました。オスカル2世は後にボストロムに対して国王の関与をほとんど受けずに大臣を自由に選任する権限を与えました。これは、スウェーデンが議会制への道を進むきっかけとなった取り決めでした。

エリク・グスタフ・ボストロム - Wikipedia
オスカル2世は、著名な作家であり、音楽愛好家でもありました。彼は、領土全体の教育の発展に多大な貢献をしました。1858年、匿名で出版された叙情詩集『スウェーデン艦隊の記念碑』は、スウェーデン・アカデミー二等賞を受賞しました。1881年には、オスロ近郊の夏の離宮(クリスチャニア)に隣接するビグドイに、世界初の野外博物館を設立しました。1885年には『音楽アカデミーへの演説』を出版し、音楽に関するエッセイの翻訳が1900年5月の『文学』誌に掲載されました。

1885年にオスカー2世の野外博物館に再建されたゴル・スターヴ教会 - Wikipedia
オスカル2世は、北極探検の熱心な愛好家でした。スウェーデンの富豪オスカル・ディクソンやロシアの有力者アレクサンドル・ミハイロヴィチ・シビリャコフと共に、1800年代には数々の先駆的な北極探検を後援しました。オスカル2世が後援したもっとも有名な北極探検は、アドルフ・エリク・ノルデンショルドによるロシア北極圏とグリーンランドの探検、そしてフリチョフ・ナンセンによるフラム号による極地探検です。

北極海に向けてベルゲンを出るフラム号(1893年7月2日)(左)、ナンセンの遠征隊が通った経路(右) - Wikipedia
1890年代になると、外交や内政でノルウェー・スウェーデン間の対立が顕著になりました。ノルウェーは世界第3位の海運国になるなど自立が更に進み、自国の領事館の設置を巡り両議会が対立しました。オスカル2世は、ノルウェー議会の方針には反対の意を唱え、スウェーデン議会は国王の支持を取りつけて、領事館設置の法案を拒否しました。この時はノルウェー側が譲歩しましたが、1905年に両議会の交渉が決裂、ノルウェー議会は連合の解消を宣言しました。スウェーデン政府はこの決定に反発し、軍を総動員して戦争の危機にまで至りましたが、ノルウェーの独立が必至であることを理解したオスカル2世は、スウェーデン議会と国民を説得し、困難な交渉の末にノルウェーの分離独立が合意に至りました。新たなノルウェー国王には、デンマーク王フレゼリク8世の次男でオスカルの兄カール15世の外孫のホーコン7世(オスカル2世にとっては大甥に当たる)が迎えられました。

ホーコン7世 - Wikipedia
オスカル2世は1907年12月8日午前9時10分、ストックホルムにおいて78歳で亡くなりました。スウェーデン王国の王位は、オスカル2世の長男グスタフ5世が継ぎました。

グスタフ5世 (スウェーデン王) - Wikipedia
このコインの鑑定枚数(1898年発行)は、PCGSでは3枚あり、Top PopはMS65となります。NGCでは9枚あり、Top PopはMS65となります。このコインは、どの電台も発行枚数が非常に多いのですが、1888年発行が50万枚と最も少ないので、MSクラスのコインであれば希少ではないかと思われます。
今回の旅は、ここまでにしたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇♂️
探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙