コイン探求の旅 #90 『ニュージーランド自治領 1シリング銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ニュージーランド自治領 1シリング銀貨』です。

発行国  ニュージーランド自治
材質  シルバー
品位  0.5
発行年  1935年
発行枚数  1,680,000
鑑定会社  未鑑定
グレード  F~XF相当
サイズ

 このコインは、表面には中央にジョージ5世の肖像が描かれ、その左に英語で「ジョージ5世 王」、右に「皇帝」と刻まれています。裏面には中央にタイアハ(マオリの伝統的な杖型武器)を持ちしゃがんだ姿勢のマオリの戦士が描かれ、その左下にエングレイバーであるジョージ・クルーガー・グレイのイニシャル「KG」、上部に英語で「ニュージーランド」、下部に額面の「ワン シリング」と発行年の1935年が刻まれています。このコインの裏面のデザインは、前回#89ご紹介した1/2クラウン銀貨と同様、ジョージ・クルーガー・グレイが手掛けています。

https://en.numista.com/catalogue/artist.php?id=305

 今回は、コインの裏面に描かれているマオリ族について書きたいと思います。

マオリ - Wikipedia

 マオリは、13世紀末から14世紀初頭にかけて、ポリネシアからの入植者がカヌーでニュージーランドに渡ってきたことが始まりとなります。

The Māori settlement of New Zealand represents an end-point of a long chain of island-hopping voyages in the South Pacific. - Wikipedia

 1700年代に入ると、ジェームズ・クックニュージーランドに到達、マオリ接触しました。ジェームズ・クックはこの時にニュージーランドの地図を作製、北島と南島を分ける海峡(後にクック海峡と命名)を発見しました。

クックの公式肖像画 海軍博物館(ロンドン)所蔵 - Wikipedia

 1800年代になると、外国の捕鯨船や密漁船、オーストラリアからの脱走兵やキリスト教宣教師がニュージーランドを訪れるようになり、マオリの生活に少なからず影響を及ぼし始めました。1809年にはボイド号船長がマオリの酋長の息子を鞭打ったことから、その復讐のため乗組員と乗客66人を人質に取り、殺害するというボイド号虐殺事件が発生しました。この事件のさ中、マオリが殺害した乗員乗客を食べたという証言があり、船会社や宣教師たちはマオリとの接触を減らすことになりました。

Walter Wright - The Burning of the Boyd (1908) - Wikipedia

 ニュージーランドに逃げ込んだ人々の中には、マオリとして生きていくことを選んだ者もいました。マオリは、彼らからヨーロッパの知識や技術を習得しました。特に、マスケット銃を得たことは非常に重要で、外部の侵略から守り、また逆に侵略するための貴重な武器として使われました。

Muskets and bayonets aboard the frigate Grand Turk - Wikipedia

 1840年以前、ニュージーランドはイギリスの植民地ではなく、イギリスの法律の適用外でした。1839年にイギリス人による無法な土地投機が増え続けているという話がロンドンに届いたため、政府は介入することを決定しました。1839年5月6日、ニュー・サウス・ウェールズ植民地をニュージーランドに拡大し、ニュージーランドの全部または一部に主権を確立して植民地を設立するよう指示、イギリス海軍大尉ウィリアム・ホブソンを派遣しました。1840年2月6日、ホブソンはワイタンギで北島の多くの酋長とワイタンギ条約に調印しました。1840年5月、ホブソンは2つの宣言でイギリスの主権を確立、1つ目は北島の割譲に基づくもので、2つ目は南島がテラ・ヌリウス(ラテン語で『誰のものでもない土地』という意味)であることに基づくものでした。その後、ホブソンは植民地の初代総督となりました。

William Hobson - Wikipedia

 条約締結当初、マオリとヨーロッパの人々との関係は良好でしたが、ワイカトのマオリ族が英国の王族制度に対抗するマオリ王運動(Kīngitanga)を立ち上げようとしたことや、土地の購入をめぐる対立が高まり、1860年代にニュージーランド戦争が勃発しました。この紛争で双方に死者はほとんど出ませんでしたが、植民地政府は反乱に対する罰として部族の土地を没収しました(後に没収された土地の一部は返還されました)。その後も1881年のパリハカ事件や、1897年から1898年にかけての犬税戦争など、いくつかの小さな紛争が起こりました。

Memorial in the Auckland War Memorial Museum for all who died in the New Zealand Wars - Wikipedia

 1867年、議会はマオリ議席を4議席設け、ヨーロッパ系ニュージーランド人よりも12年早く、すべてのマオリ男性に普通選挙権を与えました。しかし、1879年の総選挙までは、男性が有権者となるには、土地所有か賃貸料の支払いという財産要件を満たす必要がありました。マオリ議席マオリの政治参加を促しましたが、当時のマオリの人口の相対的な規模からすると約15議席が必要であり、決して平等な議席数とは言えませんでした。19世紀後半になると、ジェームズ・キャロル、アーピラナ・ンガタ、テ・ランギ・ヒロア、マウイ・ポマーレといった有能なマオリの政治家が政界に登場するようになりました、

Sir Āpirana Ngata became instrumental in the revival of traditional arts such as kapa haka and carving. - Wikipedia

 第一次世界大戦中には、マオリの開拓部隊がエジプトに派遣されました。彼らは戦闘歩兵大隊として大いに活躍し、戦争末期には「マオリ開拓大隊」として知られるようになりました。

Cap Badge of the New Zealand Pioneer Battalion, August 1916 - Wikipedia

 第二次世界大戦中には、政府はマオリの徴兵を免除することを決定しましたが、大勢のマオリが志願しニュージーランド師団第28大隊(マオリ大隊)を編成しました。3,600人がマオリ大隊に所属し、残りは砲兵隊、開拓隊、自宅警備隊、歩兵隊、空軍、海軍に所属しました。第28大隊は、例えば第二次世界大戦末期のイタリア戦線において「モンテ・カッシーノの戦い」に投入されたことで知られています。

モンテ・カッシーノの戦い - Wikipedia

 1960年代以降、マオリ族は社会的な平等を勝ち取るために様々な活動や抗議運動を行いました。1990年代から2000年代にかけて、政府はマオリ族と交渉し、1840年のワイタンギ条約で定められた保証をイギリス王室が破ったことに対する救済を行いました。ニュージーランド政府は、2006年までに9億ニュージーランド・ドルを超える和解金を提供し、その多くは土地取引という形で支払われました。2008年6月25日に7つのマオリ・イウィとの間で調印された最大の和解案では、9つの広大な森林地帯がマオリの管理下に移されました。

Whina Cooper leads the Māori Land March through Hamilton in 1975, seeking redress for historical grievances. - Wikipedia

 

 このコインの鑑定枚数(1935年発行)は、PCGSでは97枚あり、Top PopはMS66、PR67、PR67CAMとなります。NGCでは51枚あり、Top PopはPF67、PF66CAとなります。プルーフは364枚しか存在しないそうなので、かなり希少ではないかと思います。興味がある方は是非探してみてください。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

 探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙