コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ムハンマド・アリー朝 5キルシュ銀貨 フアード1世』です。

| 発行国 | ムハンマド・アリー朝(エジプト) |
|---|---|
| 材質 | シルバー |
| 品位 | 0.833 |
| 発行年 | 1923年 |
| 発行枚数 | 1,800,000 |
| 鑑定会社 | 未鑑定 |
| グレード | VG~F相当 |
| サイズ |
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このコインは、表面には中央にフアード1世の肖像が描かれ、その右側にアラビア語で「エジプトの王 フアード1世」と刻まれています。裏面には円の内側にアラビア語で「エジプト王国」、円の外側上部に額面である「5キルシュ」、左下の西暦で発行年である「1923」、右下にヒジュラ暦で発行年である「1341」、下部に小さくミントマークの「H(バーミンガム、ラルフ・ヒートン&サンズ社)」が刻まれています。
このコインの表面は、ハメド・セリーによりデザインされましたが、彼に関する情報が全くなく、他にどういったコインのデザインを手がけたのか分かりませんでした。
このコインは、ムハンマド・アリー朝第9代国王フアード1世の治世において発行されたコインです。フアード1世の在位期間は1917~1936年のおよそ19年間でした。

フアード1世は、#97で解説したイスマーイール・パシャの5男で、#98で解説したフサイン・カーミルの異母弟です。
幼少期のフアードは、父の亡命先であったナポリで過ごし、イタリアのトリノにある軍事アカデミーで教育を受けました。エジプトの国王となる前、フアードはエジプト大学(現在のカイロ大学)の設立に重要な役割を果たしました。彼は1908年に同大学の初代学長に就任し、1913年に辞任するまでその職を務めました。その後フアードはオスマン帝国から独立したばかりのアルバニアの王位に就こうと試みましたが、失敗に終わりました。当時、エジプトは彼の甥であるアッバース・ヒルミー2世が統治しており、フアードが王位につく可能性が低かったこと、また初代国王ムハンマド・アリーがアルバニア系である(真偽は定かではない)ことが、アルバニアの王位に就こうとした動機となりました。1917年に兄のフサイン・カーミルが亡くなると、ムハンマド・アリー朝の王位を継承してフアード1世を名乗りました。

第一次世界大戦終了後、1919年に前年の反植民地活動家サアド・ザクルールの逮捕、マルタへの流罪がきっかけとなり、エジプト革命が起こりました。暴徒はイギリスの軍事施設、公共施設を攻撃対象とするようになったため、形式的ではありましたがイギリスはエジプトの統治を放棄し、1922年2月22日に独立を達成しました。この革命により、800人以上のエジプト人が命を落とし、1600人以上が負傷したとされています。

1922年3月15日、フアードはスルタンから国王へと称号を変更する法令を発布しました。1923年の憲法は、フアード1世に広範な権限を与えました。彼は、議会を解散する権利を頻繁に行使しました。彼の治世期間中、内閣は国王の意のままに解散され、議会は4年間の任期を全うすることはありませんでした。1930年には1923年の憲法を廃止し、議会の役割を諮問機関のみに限定する新憲法に置き換えることで、王室の権力を強化しようと試みました。しかし、国民の大きなな反発にあい、1935年に旧憲法を復活させることを余儀なくされました。
フアード1世は、1936年4月28日にカイロのクッベ宮殿において68歳で亡くなりました。その時の妻であったナズーリー・サブリーとは夫婦仲が非常に悪く、彼が亡くなった後復讐として彼の服をすべて地元の古着市場に売却したと言われています。フアード1世は、カイロのアル・リファーイー・モスク内のケディバル廟に埋葬されました。王位は、息子のファール-ク1世が継ぎました。

https://www.viator.com/ja-JP/Cairo-attractions/Al-Rifai-Mosque-Masjid-Al-Rifai/d782-a22130
このコインの鑑定枚数(1923年発行、ミントマーク有り)は、PCGSでは25枚あり、Top PopはMS64となります。NGCでは見当たりませんでした。フアード1世の肖像画描かれたコインであれば、20キルシュ銀貨辺りが魅力的でしょうかね。ただ、未使用品となると1,800ドルの値が付くようなので、さすがに簡単に入手できるコインではありませんね。

https://en.numista.com/catalogue/pieces15233.html
今回の旅は、ここまでにしたいと思います。
最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇♂️
探求の旅は、まだまだ続きます🐪🌙
