コイン探求の旅 #9 『ラスール朝 ディルハム銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ラスール朝 ディルハム銀貨』です。

発行国  ラスール朝(イエメン)
材質  シルバー
品位  ?
発行年  14世紀頃?
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  PO~AG相当
サイズ

 このコインについてはほとんど情報が無く、あまり詳細を書くことができませんでした。両面に刻まれている文字の意味は不明ですが、裏面中央にはライオンが描かれていることが分かります。ラスール朝のコインには魚、座った人間、鳥、ライオンといった生き物が刻印されており、マフジャムで鋳造されたコインにはライオンが刻印されています。ちなみに、以下はWikipediaに載っていたコインですが、魚の刻印が入っておりアデンで鋳造されたことが分かります。

ラスール朝 - Wikipedia

 このコインの発行年も定かではないのですが、14世紀頃と思われますので、その前提で書いていきます。

 ラスール朝は、1229年からおよそ225年間という長期に渡りイエメン周辺地域を支配した王朝です。

 14世紀にラスール朝の君主の座に就いたスルターンは、第4代ムアイヤド1世(在位1296年~1321年)、第5代ムジャーヒド(在位1321年~1363年)、第6代アフダル(在位1363年~1377年)、第7代アシュラフ2世(在位1377年~1400年)の4名です。ラスール朝の最盛期は、ムアイヤド1世の先々代の王である第2代ムザッファル1世の治世とされています。

ラスール朝 - Wikipedia

 14世紀のラスール朝は、国際貿易の一大中継地として経済的には安定しており成長を続けていましたが、ザイド派勢力の攻撃やクルド人などによる反乱、王の兄弟による謀反が発生するなど政治的な混乱が度々発生しました。ムジャーヒドの治世においては内紛により国が二つに分裂しましたが、マムルーク朝(エジプト)の支援を受けたムジャーヒドが、ラスール朝の再統一を果たしました。

 しかし、15世紀に入ると政治的にはさらに混迷を深め、1439年に第12代スルターンに即位したアシュラフ4世の治世以降、5人のスルターンが並び立つという分裂状態となりました。ラスール朝は1454年、第17代スルターンのムアイヤド2世の代で滅亡しました。

 

 このコインの鑑定状況についても、やはり分かりませんでした。ラスール朝のコインは、ヤフオクやメルカリで安価で出品されているものを見かけますが、前述したラスール朝のコイン特有の生き物が刻印されたコインは、あまり見かけないような気がします。ラスール朝のコインがどうしても欲しいという方はほとんどいらっしゃらないとは思いますが、気になる方は生き物の刻印を手掛かりに探してみると良いかもしれませんね。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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コイン探求の旅 #8 『ガージャール朝 Shahi Sefid銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ガージャール朝 Shahi Sefid銀貨』です。

発行国  ガージャール朝(イラン)
材質  シルバー
品位  0.9
発行年  1885~1886年ヒジュラ歴1303年)
発行枚数  ?
鑑定会社  未鑑定
グレード  G~VG相当
サイズ

 表面には、「アルスルタン ナーセロッディーン シャー ガージャール テヘラン」の文字が刻まれています。裏面には、剣を持ったライオンと太陽の図柄が描かれています。またライオンの下の文字は擦れて一部読めませんが、ヒジュラ暦の年号が書かれていると思われます。

 

 このコインは、ガージャール朝(イラン)のナーセロッディーン・シャーの時代に発行されたコインです。ナーセロッディーンは、ガージャール朝の第4代シャーで、その在位期間は1848年9月17日から1896年5月1日のおよそ48年間でした。1848年に父であり第3代シャーのモハマンドが痛風で亡くなったため、17歳という若さで第4代シャーに即位しました。

ナーセロッディーン・シャー - Wikipedia

 ナーセロッディーン・シャーの治世時には、徐々にイギリスとロシアによる半植民地化が進みつつありました。彼は、イギリスが支配するペルシャ東部の回復をもくろみ、1856~1857年にイギリス・ペルシャ戦争が発生しましたが、イギリス側の勝利で終わりました。その結果、商業的特権や治外法権を承認し、関税自主権を放棄することとなりました。

 ナーセロッディーン・シャーは日本とも関りがあり、イラン国王として初めて日本人と接触しました。1878年にヨーロッパ旅行からの帰途で当時駐露公使だった榎本武揚らとロシアで面会しました。そこで条約締結に向けた使節の派遣で合意し、日本から吉田正春率いる使節団が派遣されました。しかし日本との条約関係が成立したのはナーセロッディーン・シャーの死から30年後のこととなります。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000080362.pdf

 当時のイラン国内の産業は、ヨーロッパから輸入される廉価な織物により手工業者の生活が大きな打撃を受けました。また綿花、ナッツ、果物、アヘンに対する需要の高まりに伴い大土地所有制が進展し、農民の生活も大きな打撃を受けました。さらに近代化の推進により、土地の収穫税が2倍に跳ね上がったことも追い討ちを掛けました。こうして、国内の産業は衰退していきました。

 ナーセロッディーン・シャーは、1896年5月1日に祈祷のため訪れたテヘランの近郊レイのシャー・アブドルアズィーム廟で、ミールザー・レザー・ケルマーニーによるリボルバーの銃撃で暗殺されました。死の直前に「生き延びたならば、違ったように統治するであろう!」という言葉を残したと伝えられています。レザー・ケルマーニーは国外逃亡を図りますが、オスマン帝国政府により逮捕され、その後イランに引き渡され1896年8月10日にテヘランで処刑されました。

 ナーセロッディーン・シャーは、シャー・アブドルアズィーム廟墓地に埋葬されました。一体成形による大理石の墓石は、ナーセロッディーン・シャーを型取っており、現在はテヘランのゴレスターン宮殿博物館に所蔵され、ガージャール朝期彫刻の傑作として有名です。

ゴレスターン宮殿(Kakh-e Golestan)ーⅡ Khalvat-e-Karim Khani : テヘランライフ

 

 このコインの鑑定枚数はよくわからず、PCGS、NGC共に同年代のコインを見つけることができませんでした。出品されていた方からはヒジュラ暦1303年と伺っていたのですが、コインの発行年の箇所が擦れて私には読み取れなかったので、誤りの可能性もあるかと思います。このコインの発行枚数は定かではありませんが、私のコインのようにG~VG相当のコインであれば比較的容易に見つけることができますので、かなりの数が発行されていると思われます。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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コイン探求の旅 #7 『シエラレオネ 1セント銅貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『シエラレオネ 1セント銅貨』です。

発行国  シエラレオネ
材質  カッパー
品位  ?
発行年  1791年
発行枚数  400
鑑定会社  NGC
グレード  PF64BN
サイズ

 私が所有しているコインは、PF64BNとコイン自体のコンディションは良いのですが、スラブの状態があまり良くなく、表面に擦り傷があるため光を当てて写真を撮るとどうしても映り込んでしまうんですよね。これが非常に気持ち悪いです・・・リホルダーしてもらっても良いかもしれませんね。

 

 このコインは、表面にライオン、裏面には2つの手が握手する図柄が描かれています。裏面は、当時活発だった奴隷廃止運動にまつわるものと思われています。

 このコインに関しては、とある(@propGAFA)さんが素晴らしい解説動画をアップされていますので、是非そちらをご覧ください。私には残念ながらこれ以上の深堀はできませんので(^^;

www.youtube.com

 なおこのコインは銅貨ですが、同じデザインで額面が1ドルの銀貨も存在します。発行枚数はわずかに40枚と非常に希少価値が高いこともあり、過去の泰星オークションでは302万円という高値で落札されていました。私にはとても手が出せる価格ではありませんが、一度現物を見てみたいですね。

auctions.taiseicoins.com

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

 最後までご覧いただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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コイン探求の旅 #6 『ウルグアイ 50センテシモ銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ウルグアイ 50センテシモ銀貨』です。

発行国  ウルグアイ
材質  シルバー
品位  0.9
発行年  1917年
発行枚数  5,600,000
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF toned相当
サイズ

 今回は、#3~#5と同年代に発行されたコインを選びました。

 

 このコインは、表面に「ウルグアイ建国の父」と呼ばれるホセ・ヘルバシオ・アルティガスの肖像が描かれています。アルティガスは、このコインが発行された1917年にはすでに没しています(没年は1850年)。おそらく、アルティガスについて書く機会は今回以外無さそうなので、ここでは彼について書いていきます。

José Gervasio Artigas - Wikipedia

 現在のウルグアイ周辺地域は、1600年代以降主にスペインとポルトガルの係争地となっていましたが、1777年にスペイン・ポルトガル間で締結されたサン・イルデフォンソ条約により、正式にスペインが領有していました。

 1811年、ブエノスアイレス独立運動が始まり、それと呼応する形でパンダ・オリエンタル(ウルグアイ川東岸地域を指します)のアルティガスが蜂起しました。一時は協力体制にあったブエノスアイレスモンテビデオ独立運動ですが、方針の違いなどからやがて対立することとなりました。一時はブエノスアイレス軍によりモンテビデオは攻略されましたが、アルティガスは東方州を拠点としてコルドバ州サンタフェ州エントレ・リオス州コリエンテス州と共に連邦同盟を創設(下図の赤い箇所)し、1815年1月にはモンテビデオの奪還に成功、6月29日にスペインからの独立を宣言しました。

連邦同盟 - Wikipedia

 1816年8月になると、ポルトガル=ブラジル連合王国軍がブラジル方面から侵攻を開始したため前後に敵を作る形となり、一気に苦境に立たされました。1820年まで両軍に対してゲリラ戦を続けますが、ポルトガル軍のレコール将軍によりモンテビデオは攻略され、アルティガスは隣国パラグアイに亡命、領土はポルトガル=ブラジル連合王国に吸収されました。ウルグアイ東方共和国として正式に独立を果たすのは、それからおよそ12年後の1828年8月になります。

 アルティガスは1850年9月23日、30年間の亡命生活の末にパラグアイで亡くなりました。アルティガスは自らの死期が近いことを悟ると、馬を求めガウチョとして鞍上で亡くなったと言われています。アルティガスの遺骨は、1977年6月19日にモンテビデオの独立広場の中心にあるアルティガス廟に移されました。

 

 このコインは、PCGSの鑑定済みはなく(1916年発行はあり)、NGCは28枚あります。発行枚数が非常に多く価値がさほど高くないようなので、未鑑定が大量にあるのかもしれません。私もこのコインは安値で購入しましたが、トーンが非常に良い感じでお値段の割に良いコインではないかと思っています。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #5 『英領西アフリカ 2シリング銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『英領西アフリカ 2シリング銀貨』です。

発行国  英領西アフリカ
材質  シルバー
品位  0.925
発行年  1914年
発行枚数  637,000
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF toned相当
サイズ

 今回は、#3、#4と同年代に発行されたコインを選びました。

 

 このコインは、表面にジョージ5世の肖像、裏面にヤシの木が描かれています。このコインについて書くうえでジョージ5世の解説をするのはちょっと違うかな、と感じるので、今回は当時のアフリカ情勢について書きます。ジョージ5世の肖像が描かれたコインは山ほどありますので、別の機会に書きたいと思います。

 

 英領西アフリカとは、現在のガンビアシエラレオネ、ガーナ、ナイジェリア辺りを指します。以下の緑色の箇所が該当します。

イギリス領西アフリカ - Wikipedia

 1914年時点のアフリカ大陸は、ほとんどの地域がヨーロッパ各国により植民地化されており、独立国は東部のエチオピア帝国と西部のリベリア共和国のわずか2か国しかありませんでした。

アフリカ戦線 (第一次世界大戦) - Wikipedia

 第一次世界大戦の勃発により、アフリカ各地の同盟国領と中央同盟国領との間で戦闘が発生することとなりました。

 アフリカに植民地を持つ中央同盟国はドイツのみで、しかも植民地化されてから日が浅く、十分な戦力を保有していない状況でした。それに対しイギリスを中心とした同盟国側は十分な戦力を保有していたため、トーゴランドは開戦直後の1914年8月に降伏、カメルーンは1916年2月に降伏しました。しかし、東アフリカだけは状況が異なり、「アフリカのライオン」の渾名を持つパウル・フォン・レットウ=フォルベック率いる植民地防衛隊は、ゲリラ戦により圧倒的な戦力を持つイギリス軍を大いに苦しめました。

パウル・フォン・レットウ=フォルベック - Wikipedia

 フォルベックは非常に興味深い人物なのですが、今回のコインからあまりにも話がそれ過ぎてしまうので、今回は記載を見送ります。ドイツ領東アフリカのコインを紹介する際に、改めて書いていこうと思います。そもそも、そんなコインあるの?と言われそうですが、ちゃんとあるんですよこれが(笑)

 

 このコインは鑑定済みが殆ど無く、PCGSは1枚のみ、NGCはありませんでした。状態の良いコインがあまり無く、また価値が低く未鑑定のコインが多数あるといった状況ではないかと思います。ちなみに、過去のヘリテージオークションでは、AU58が$312で落札されていました。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #4 『モンテネグロ王国 1ペルペラ銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『モンテネグロ王国 1ペルペラ銀貨』です。

発行国  モンテネグロ王国
材質  シルバー
品位  0.835
発行年  1914年
発行枚数  500,000
鑑定会社  未鑑定
グレード  VF+相当
サイズ

 今回は、#3でご紹介した5マルク銀貨と同年代に発行されたコインを選びました。

 

 このコインは、モンテネグロ王国のニコラ1世の時代に発行されたコインです。ニコラ1世の在位期間は、1860年8月13日から1918年11月26日のおよそ58年間でした。なお、1905年の憲法改正により、モンテネグロ公からモンテネグロ国王に昇格していますので、実際に王位にあったのはおよそ13年間となります。伯父のダニーロ1世が没した際、嫡子がいなかったため公位を継承しました。ニコラ1世がどういった人物だったかについては、残念ながら情報が無く不明ですが、モンテネグロの国民歌「Onamo, 'namo」を書いており、詩人としても有名であったようです。

ニコラ1世 (モンテネグロ王) - Wikipedia

 モンテネグロ王国は、当時「ヨーロッパの火薬庫」と言われていたバルカン半島のほぼ中央部に位置する小国で、オスマン帝国の衰退に乗じて進出を図るオーストリア=ハンガリー帝国ロシア帝国という構図の中に置かれており、いかにして生き残っていくかという難しい選択を迫られていました。

1a 開戦前の欧州の国境 | カイゼン視点から見る第一次世界大戦

 1912年には、ロシアの支援によりギリシャセルビアブルガリアと共にバルカン同盟を結成、オスマン帝国との第一次バルカン戦争が勃発しこれに勝利しました。1913年には、領土問題で決裂したブルガリアとの間で第二次バルカン戦争が勃発、モンテネグロ王国オスマン帝国と共に反ブルガリア勢力に加担し勝利しました。この2度に渡る戦争の結果、どちらの陣営も領土的な不満を残すこととなり、やがて第一世界大戦が勃発することとなります。

 第一次世界大戦において、モンテネグロ王国は連合国として参戦、中央同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国によって占領され、ニコラ1世はフランスに亡命しました。1918年にはセルビア帝国により占領され、その後セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)に吸収され、モンテネグロ王国は消滅しました。

 ニコラ1世は、1921年3月1日に亡命先であるフランスのアンティーブでその生涯を閉じました。死去するまで、モンテネグロ王位を主張し続けましたが、その願いが叶うことはありませんでした。ニコラ1世夫婦の遺体は、1989年になってようやく祖国モンテネグロに移葬されました。

 

 このコインは、表面にニコラ1世の肖像、裏面にモンテネグロ王国の国章が描かれています。ありふれた構成ですが、特に裏面の国章のデザインは素晴らしいと思います。

モンテネグロ王国 - Wikipedia

 コインの発行枚数は50万枚と非常に多いのですが、コインショップなどではあまり見かけないような気がします。鑑定済みコインは、PCGSでは23枚、NGCでは105枚存在するようです。私が所有しているコインのように、未鑑定が多数存在しているのかもしれません。

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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コイン探求の旅 #3 『ドイツ帝国 ブレーメン 5マルク銀貨』

 コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『ドイツ帝国 ブレーメン 5マルク銀貨』です。

発行国  ドイツ帝国
材質  シルバー
品位  0.9
発行年  1906年
発行枚数  600
鑑定会社  PCGS
グレード  MR64CAMEO
サイズ

 CAMEOだと、写真撮影の際に映り込みがあって難しいですね・・・もっとキラキラしたイメージの写真にしたかったのですが、うまく撮影できず諦めました(^^;

 

 このコインは、ドイツ帝国の第3代皇帝ヴィルヘルム2世の時代に発行されたコインです。ヴィルヘルム2世の在位期間は、1888年5月16日から1918年11月9日のおよそ30年間でした。ヴィルヘルム2世は、中国進出と義和団の乱鎮圧のための出兵、モロッコ事件(フランスのアフリカ進出への対抗策)、3B政策よるバルカン半島や中東への影響力の拡大など、対外的には強硬な政策を取ったため、好戦的な人物というのが一般的な評価となっています。性格的に苛烈であったことは事実なようですが、実際には繊細、神経質、平和愛好的な性格だったようです。周囲の人たちには偏見を持って接することが多かった(特に黄色人種蔑視は酷かったらしい)ようです。個人的には、あまりお近づきになりたくないタイプかも・・・(^^;

ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝) - Wikipedia

 ヴィルヘルム2世は、1888年に第2代皇帝であり父であるフリードリヒ3世が崩御したことに伴い、皇帝に即位しました。皇帝即位後の1890年、意見がかみ合わなかった首相のビスマルクを辞職させ、親政を開始しました。その後は、先に述べた通り一貫して帝国主義政策を推進し続けたため、イギリスやロシアなどとの対立を深めることとなり、その結果第一次世界大戦が勃発しました。

ja.wikipedia.org

 開戦から2年後の1916年になると、ヒンデンブルク参謀総長ルーデンドルフ参謀次長による軍部独裁体制が確立され、ヴィルヘルム2世はほぼ実権を喪失することとなりました。

 東部戦線は1918年3月にロシアと講和条約を結び終息しましたが、西部戦線は次第に絶望的な状況となりつつありました。国内では厭戦機運が高まり、11月にはキール軍港の水兵反乱をきっかけにドイツ革命が勃発、宰相マクシミリアンの独断により皇帝の退位が宣言されました。これによりヴィルヘルム2世はオランダへ亡命、ドイツ帝国は崩壊しワイマール共和国に移行することとなりました。

ja.wikipedia.org

 ヴィルヘルム2世はその後、23年間オランダのドールンで悠々自適な亡命生活を送り続けます。第二次世界大戦におけるナチスドイツのオランダ侵攻の際は、チャーチル首相からイギリスへの亡命を勧められましたがこれを拒絶、ドイツ軍の保護を受けました。

 ヴィルヘルム2世は、1941年6月4日に亡命先のオランダでその生涯を閉じました。葬儀はドイツ軍により執り行われ、遺言に従いドールンの館の庭園に建設された霊廟に埋葬されました。

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 このコインには、ヴィルヘルム2世の肖像が描かれていません。表面はブレーメンの紋章、裏面はドイツ帝国の国章が描かれています。

 それにしても、ドイツの銀貨は本当に良いですよね。デザインの美しさ、サイズや質感、すべてにおいて素晴らしいと思います。この銀貨は、私のお気に入りの一枚です。毎回、お気に入りと書いているような気がしますけど・・・まあ、欲しくて買ったコインなので当然ですが(^^;

 

 今回の旅は、ここまでにしたいと思います。

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